グリューネワルト伯爵夫人アンネローゼの居館は菩提樹も美しい落ち着いた館であったが、がそれに気付いたのは、アンネローゼの元を辞した後だった。 つまりは、キルヒアイスが地上車をアンネローゼの居館に回したとき、は未だラインハルトの腕の中で前後不覚の状態だったのだ。 「まぁ、!」 「大丈夫ですよ、アンネローゼ様。眠っているだけです。」 「姉上、すいませんが、部屋を一つ用意してもらえますか?」 アンネローゼは女主人自ら迎えに出て、ラインハルトの腕の中のに驚いたが、キルヒアイスとラインハルトの苦笑を交互に見つめてから、ようやく安堵したように微笑を浮かべた。 「きっと緊張の糸が切れてしまったのね。」 を用意した一室に寝かせた後、アンネローゼは前以て用意したケルシーのケーキと芳香の良い紅茶を振る舞いながら呟いた。 互いに情報交換と、ラインハルトがキルヒアイスとアンネローゼに、皇帝がに下した処遇を話すと、さすがに眼を見開いて驚いていた。 「それでは、が助かったのは、彼女自身の姿にあったわけですね。」 アンネローゼの前であったから、キルヒアイスはかなり控えめに、しかし軽蔑にも似た冷笑を温和な顔に浮かべた。 温和にも見えるその冷笑を、直接向けられて平然としているのは実は酷く難しいのだが、今回はその席にいる誰に向けられたわけでもなかったので、キルヒアイスの微笑はそのまま沈黙した空気に溶けていった。 ラインハルトの方はといえば、隠しもせずに非難の表情を見せる。 現在進行系で皇帝の寵を独占しているアンネローゼは、酷く罪悪感めいた表情で俯いていた。 考えてみれば、アンネローゼ自身が後宮に入ったのが15歳の時なのだ。 あれから約10年、当然ながら10歳年齢の離れた妹のような少女は当時の自分と殆ど変わらぬ年齢になっている。 アンネローゼは選択肢が無かったとはいえ、自身の宿命を受け入れたが、出来ればには同じ道は歩んで欲しくなかった。 口に出してしまえば、それは明らかに罪にされてしまうであろうが、アンネローゼには、後宮に入ることが幸せだとは思えなかったのである。 アンネローゼ自身は、今は何不自由なく生活が保証され、皇帝も足しげく通ってくるが、それに対して満たされたと感じたことは無い。 かつて皇帝の寵を独占していたベーネミュンデ候爵夫人シュザンナも、今は閑散とした館で燻った感情を持て余していると聞く。 アンネローゼとシュザンナの違いは、そうして皇帝の気まぐれが自身の人生を左右することを認識しているかいないかにあるのだが、認識しているからこそ、アンネローゼはラインハルトやキルヒアイス以上にの身に降り懸かった事態を懸念していた。 「そういえば」 黙り込んでしまった姉弟に、キルヒアイスは浮上を図ってことさら注意を引くような口調で、ティーカップから口を離した。 「はどうやって連絡をしてきたのですか?」 それはラインハルトも気になっていたところだ。 貴族階級の暗黙の了解として、身分の低い者は上の者に対して自ら連絡をとれることはまずない。 まして、貴族同士としての面識が無ければ余計にであるし、クロプシュトックの場合はそれにプラスして、更に皇帝フリードリヒ4世の側近達に蛇蝎の如く嫌われていた。 皇帝はおろか、その寵姫でさえ、安易に連絡など取れようはずもない。 「は、ヴェストパーレ男爵夫人の元に、連絡をしてきたの。」 ぽつりと語り出したアンネローゼの話によると、そういうことらしい。 皇帝とアンネローゼに連絡をしようとし、当然の如くそれを跳ね除けられたは、その後にヴェストパーレ男爵夫人に連絡を取った。 アンネローゼと懇意にしていたことを知っての上であったし、忌避されているとはいえ、候爵家からの急な一報に男爵夫人が出たのが幸いした。 ヴェストパーレ男爵夫人は、そこで半ば泣き叫ぶように語るの姿に、伝言を受ける気になったのだという。 とヴェストパーレ男爵夫人との関係は、後々本人に聞くとして、結局、ヴェストパーレ男爵夫人マグダレーナは危機を伝えると同時に、信憑性を確かめるために、ヴィジホンの記録映像をそのまま転送したのだそうだ。 ブラウンシュウァイク邸に向かう途中でそれを受けたアンネローゼは、その記録映像に映る少女を保証したが、なにぶん話の内容が内容であったため、とりあえずは皇帝の腹痛ということで、道中を引き返した。 ちなみに、皇帝がに新無憂宮に参内するように令を出したのはこのときだという。 皇帝は皇帝で、ヴィジホンに映る少女の姿を、別の視点から眺めていたらしい。 「呑気なものだ。」 極微量の声でラインハルトが呟くと、キルヒアイスは同じように沈鬱な表情を浮かべ、アンネローゼは一つ溜息を置いてから改めるように微笑んで応えた。 「の様子を見てきましょうか。面会の時間ももうすぐ終わってしまうし、貴方達もも宮内に戻らないといけないのでしょう?」 「アンネローゼ様、様子なら私が見てきます。どうぞ座っていて下さい。」 気を利かせたつもりでキルヒアイスが立ち上がったが、アンネローゼは少し困ったように笑って二人の青年を制した。 「あら、ジーク。仮にも年頃の淑女の寝室に入ろうというの?にひっぱたかれてしまうわよ?」 公衆の面前でラインハルトに甘えた彼女がその程度を気にするとも思えなかったが、言われて見ればその通だろう。 立ち上がったまま、困惑したように固まってしまったキルヒアイスに、ラインハルトはくつくつと喉を鳴らしながら笑った。 「姉上には逆らわない方が賢明だぞ、キルヒアイス。」 まったくもってその通だろう。赤毛の少佐は早々に戦線を離脱して、元のように席についた。 |
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