「」 不意に、優しい声に呼ばれて、は振り返った。 その時の光景は、今でも良く覚えている。 夕暮れだった。 振り返ったら、大好きな隣家の少女が儚く微笑んでいたけれど、それに気づいたのは夕陽が全部沈みきってからだった。 「、私ね」 少女は、自分より遙かに幼い少女に、力無く笑い掛けた。 笑って、を抱きしめて、そして言葉を飲み込んでしまった。 何か言おうとしていたのは、小さすぎるにも分かったから、だから彼女は抱きしめられたまま、黙ってアンネローゼが続きを話し始めるのを待っていた。 それが、正しい反応だったのかどうかは、今でもよく分からない。 けれど、その時の自分はまだ幼すぎて、それ以外にできることなどなければ、かける言葉を探すこともできなかった。 ただ、いつも綺麗な微笑を浮かべている隣家の少女が、今日に限っては今にも泣き出しそうなほど儚い笑みを浮かべていることが辛かった。 とても大きく感じられた腕が、かすかに震えていたことが信じられなかった。 泣いて、いるのだと。 そう悟ってしまったら、その瞬間に自分も泣き出してしまいそうだった。 きっと、アンネローゼが今にも切れてしまいそうなほどに張りつめた糸のようになってしまったその理由は、さっき家の前を通り過ぎていった黒塗りの車や、それ以降、怒声がやまない隣家の中にあるのだろうとは思ったけれど、は怖くて聞くことなど出来なかったから。 「、私ね」 飲み込んだ言葉を、吐き出すように。 あるいは消化を試みるように。 アンネローゼはことさらゆるりと同じ言葉を繰り返した。 「後宮に入ることになったの。」 意を決したように吐き出された『後宮』という場所が、どんなところであるのか、言われてもには理解できなかった。 少し、を抱きしめる力を緩めたアンネローゼは、を安堵させるかのように笑みを向ける。 美しくて優しくて、エリーゼが大好きなアンネローゼの微笑み。 けれど、を安心させようというアンネローゼの意図とは裏腹に、はその端正な顔の中に、苦痛や苦悩以外のものを感じ取れなかった。 「それって、どうなるの?」 「皇帝陛下にお仕えするということよ。 「 「ええ、名誉なことなのよ。」 いかにも子供らしい質問を、は小首を傾げて投げかけた。 そしてそれに対して、アンネローゼは打てば響くようににこやかに返してくる。 だけど、は矛盾に気づかずには居られなかった。 違和感を、拭うことなど出来なかった。 だから、聞いてしまったのだ。 「それならどうして、アンネローゼ姉様は、そんな悲しそうな顔をするの?」 無邪気で、素朴なの言葉は、鋭利な刃物のようにアンネローゼを切りつける。 自分が、きっといつものように微笑んでいられていると、思いこんでいたアンネローゼは、鈍器で頭を殴られたような衝撃を覚えて、言葉を失った。 反射的に、の小さな体を抱きしめて、その酷く頼りない肩に顔を伏せる。 何かを考える前に行動してしまうなんて、アンネローゼにとっては珍しいことだった。 けれど、咄嗟にそうしなければ、アンネローゼはに涙を見せてしまっていただろうから。 人前で、泣いてはいけないなど、そんなことは無いのだけれど、それでもアンネローゼは『見せられなかった』のだ。 誰かが作り出した『アンネローゼ』という存在を、できれば壊したくなかったのかもしれない。 これからどうなるかを知っていたから、せめて最後まで『綺麗』な『アンネローゼ』でいたかったのだ。 それが、意識的にか無意識的にかは分らなかったけれど、しかしそうあろうとすればするほどに、涙が抑えられないのもまた、アンネローゼ自身にも分らない事実であって。 初めてそれを目の当たりにしたは、もしかしたら、その言葉は、聞いてはいけなかったのかもしれない、と、瞬時に悟った。 もしかしたら、アンネローゼはのこの言葉のせいで、せっかくこらえていたものを溢れさせてしまったのかもしれない。 だけどは、聞かずにはいられなかったのだ。 本当に皇帝に仕えるとうことが名誉なことなのならば。 どうしてアンネローゼ姉様は、泣きそうなの、と。 どうしてラインハルトは、あんなに怒っているの、と。 どうしてジークは、何も言わずに悲しんでいるの、と。 昨晩から聞こえてくる、耳を塞ぎたくなるほどに激しいラインハルトの怒鳴り声と、静かに微笑むアンネローゼの涙。 そして、アンネローゼの子守唄の変わりに、隣家から聞こえてくるラインハルトの怒声を聞きながら、一晩中無言で自分を抱きしめていたジークフリード。 三人とも、には何も言わなかったけれど、その根底には同一の原因が存在しているということを、は漠然と気付いていた。 ラインハルトの気性の激しさは知っていたけれど、それでも、あんなに酷い声で父親をなじる声を聞いたことなど無かった。 アンネローゼの気性の優しさも知っていたけれど、それでも、どうしてこんな風に泣きそうになりながら微笑むのか分らなかった。 だから、は聞かずにはいられなかったのだ。 だからアンネローゼは、張り詰めた糸が、緩んでしまったのかも知れない。 しばらく、声もなくただ静かにを抱きしめて泣いている少女に、夕陽を同じ色彩をもつ子供は、ただ無言で待っていた。 の細くて短い腕では、アンネローゼを抱きしめることなど、到底できなかったから。 「ねえさま」 は、小さく呟く。 アンネローゼは答えなかったけれど、にはそれが応えなのだと思ったから、呆然と少女の背中越しに沈む夕陽を浴びながら続けた。 「これから、どうなるの?」 自分は、アンネローゼは、ラインハルトは、そしてジークフリードは。 どうなってしまうのか。 きっと、今日を境にすべてが変わってしまったことに、は気付いていた。 だが、どういう変わり方をしてしまうのかなど、想像できるわけもない。 つられるように、泣きそうになるを、アンネローゼはようやくその表情から微笑をはがした。 小さな子供は、まるで迷子のようだと思う。 誰かが迎えに来てくれるのを、待っていることしかできない。 しかし、すぐそこにある未来に、迎えに来てくれる人間がいなくなってしまうことを、アンネローゼは漠然と確信していた。 おそらく、ラインハルトはおとなしく自分を諦めたりはしないだろう。 だけどアンネローゼの弟は、まだ一人で立ち上がれるほどに強くは無いのだ。 だから彼はきっと、前後の状況など考えずに、がもっとも頼みとする存在、ジークフリードを奪っていくに違いない。 そして、騎士道精神が旺盛な年代である少年たちは、目の前で奪われていった存在を取り戻すことにばかり夢中になり、きっと目の前に残った守るべき存在から、手の届かないところへ行ってしまうのだ。 残された者の悲しみを、今まさに味わっているというのに、自分たちがそれをに味あわせることになるなど、考えもしないだろう。 「」 アンネローゼは静かに呟く。 この、小さな少女から、すべてを奪ってしまうのだ、自分は。 無論、その大部分は不可抗力であるのだろうけれど。 けれど、それでも、自分はキルヒアイスに言ってしまったのだ。 「どうか、ラインハルトをよろしくね」と。 「ごめんなさい、。」 ぐちゃぐちゃとしている感情を、綺麗に押し隠して、アンネローゼはさらに続けた。 その言葉の意味を、が分ってくれるなら、少しは気分が楽になったのかもしれない。 けれどアンネローゼは、自分が小さく呟いた謝罪の意味など、永遠に分らなければいいと、酷く鬱屈した気分になりながら、思った。 自分はきっと、そんな綺麗な眼で疑いもなく見つめられるに値するほど、美しい人間ではないのだから。 しかし、小さな子供は、アンネローゼは思うよりもはるかに大人だったのかもしれない。 は、言葉を感情と共に飲み込んで吐き出せないアンネローゼに、自分の細くて頼りない腕を背に回して応えた。 その感情ごと、飲み込むように。 子供特有の高い体温が、アンネローゼを包み込む。 「アンネローゼ姉様。私も、諦めないわ。」 は、『何を』とは言わなかったけれど。 泣きそうになりながら、もう一度呟いたから。 「絶対に、負けないわ。」 だから、待っていてね、と。 小さな子供は呟く。 その小さな決意に、アンネローゼもまた、を抱きしめる腕に力を込めながら、泣いた。 涙で頬を濡らした顔を、もう隠す必要など無いのだと悟ったから。 「貴方を信じているわ。。」 |
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