「。」 背中の向こうで耳に慣れた穏やかな声が自分の名を呼んで、は反射的に固まってしまった。 それは、彼女にとっては最も心安らぐはずの一人であったのに、は此処最近、その彼の顔すらまともに見られない状況にある。 「まだ、僕の方に振り向いてくれる気にはなれないかな?」 だけど彼は、その声の持ち主であるキルヒアイスは、無条件にに優しいから、このときも少し呆れたような声で呟いただけだった。 彼は怒らないし、を責めることなどありえない。 ただ、掻き乱していくだけ。 「――ジーク…私……。」 もう答える言葉すら見失って、は固く眼を閉じてそれだけ呟いた。 何と答えていいのか分からない。 どんな顔をして振り向けばいいのか分からない。 もう一度縋ってしまったら、今度こそ自分は彼を繋ぎとめて離せなくなってしまうから。 そんなことで、キルヒアイスを束縛するなど、の本位では無かったから。 家族の愛の延長なのか。 幼馴染の馴れ合いの延長なのか。 それが何処からか、何時からか、一人の人間に対する愛に変わったところで、感情経験の浅いに、一体どうやって判断しろというのだろうか。 それを理解しているのか、それとも別の何かに対してなのか、キルヒアイスは穏やかに笑って、ただ「分かっているよ」と答える。 そして、静かに混乱しているの耳元で、続けて一言。 「、愛してるよ。」 ああ、どうか、そんなことを言わないで。 それを言葉に出来たら、は少しの平静を胸の苦しさと共に得ることが出来たのかも知れない。 それが、彼のためであることと、は信じていたから。 キルヒアイスが、もう一人の幼馴染であるラインハルトの姉、アンネローゼを想っていることを知っていたから。 それなのに、分かっているはずなのに。 キルヒアイスの言葉は砂糖菓子のような甘さを持っての思考回路を溶かしていく。 正しい判断など、とうの昔に出来なくなっていた。 だからはただ縋るように固く眼を閉じる。 振り払うように。 その眼を開けて、キルヒアイスを見てしまったら、もう引き返せないと思ったから。 だから彼女はひっそりと両の手で顔を覆う。 醜い自分を見られたくなかったから。 「。」 どうか、分かって欲しい。 だけどそれを、たったそれだけを口にすることが、には出来なかった。 もうすぐそこまできた彼は、の長い髪に手を伸ばして玩んでいるようで。 少し、髪の毛が引っ張られる感じが、くすぐったい。 それは、混乱しているのに時折胸に刺す甘い感覚と、少し似ていた。 そして彼は、の細い首に触れてくる。 その冷たい手に、はびくりと肩を震わせた。 突然の感覚に、優しい手の感触に、頬に熱が上ってまた新たな混乱を呼ぶ。 背後でまた少し、静かに笑う声が聞こえて、は見透かされたようなその気まずさに、更にきつく眼を閉じた。 それしか、出来なかった。 悟って欲しいのに、もう自分のことなんか放っておいて欲しいのに、キルヒアイスはそんなを裏切るように、優しく優しく触れてくる。 冷たい手の感覚は、今度は首筋からその手首へと移動した。 そして、顔を覆っていた手が、ゆるゆると離されていく。 見られたくないから、隠していたのに、彼はいとも簡単にそれを剥がしてしまう。 心まで丸裸にされてしまうのは、時間の問題だった。 ともすれば、眼を開いて自分に微笑んでいるその姿を望みそうになる。 それを助長するかの様に、キルヒアイスはまた、優しく囁いた。 「、嫌なら君には、僕を突き飛ばして逃げる権利がある。」 そんなこと、出来るはずが無いのに。 簡単なようでいて、酷く難しいその逃げ道。 だけど、それは、にだけではなく、キルヒアイスにとっても同様のことだったのかもしれない。 彼は優しい逃げ道を提示してはくれても、手を離してくれることは無かった。 その手を離してくれたら、自分は消えてしまうことも出来たかも知れないのに、と。 は思う。 なのにキルヒアイスは、に答える暇を与えずに、その唇を寄せてくる。 では、彼も自分を求めてくれているのだろうかと。 錯覚してしまうに充分な余韻を含んだキスが、の顔に降り注ぐ。 キスはもう何度も、幼い頃から繰り返してきた愛情表現の一つであったけど、その時とは込められた意味が違うことくらい、にも分かっていたから。 「愛してるよ、。」 最後に唇に触れて、キルヒアイスはの耳元で囁く。 その言葉も、もう使い古された表現であったけれど、決して消え去られることが無い言葉だった。 もう、彼を拒むことなど、出来ないのだ。 うっすらと眼を開けば、なんら変わることの無い、緋色の髪が視界に飛び込んで。 もう涙も言葉も想いも、留めることは出来なかった。 「――ジーク……、わたしも、愛しているわ。」 |
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