は、昔から感情表現が下手だった。 と言うのは、多少の語弊があるかも知れないのだけれど。 昔から、は上手かったのだ。 自分の要求を押さえつけるということに関して。 それは、どこから耳にしたかキルヒアイスは知らなかったが、がキルヒアイス家の誰とも血縁関係が無いことに起因したことからかも知れないし、単にの性格が控えめであったのかも知れない。 とにかく、幼いが余りに周囲の顔色を伺い自分を後回しにして周囲を立てようとする姿勢は、感心すべき美点でもあったが、まだ幼い子供が自由奔放でいられないということがどれほど精神的に不健康であるかを知っていたキルヒアイスの両親は、まるでに張り合うかのごとき勢いで、その無駄に豊かな表情で総てを察するようになってしまった。 それはまだ子供であったキルヒアイスにとっても同じことなのだが、九年間の歳月をはさんで再会したは、更に輪をかけて、徹底的に、それはもうこちらが思わず眉を顰めてしまうほど、病的なまでに自分を抑えることが上手くなっていた。 貴族である実家に引き取られた、ということは、普通に考えれば真逆の性格になる可能性のほうが高いのだけれど、の実家はそうではなかった。 貴族社会からつまはじきにされたクロプシュトックの先代当主は、の結婚を期に再起をはかろうとして、彼女に徹底的な躾を施したのだ。 結果、は自分の感情や要求を口にすることを、諦めてしまったらしい。 それでも、卑屈にだけはならなかったのが救いなのかも知れないけれど。 そして同時に、そう言った監視の眼をすり抜ける術と、ひっそりと逃げ出して自由な時間を見つけられるようになったのは、不幸中の幸いなのかもしれない。 たとえそれが、極端に限られた中での自由だったとしても。 幼少期がそんなものであったから、自然、とキルヒアイスの間には、暗黙の了解というか、行動が何を示していて、何を求めているか、漠然とはしていても言葉にする前に理解できる合図のようなものが多かった。 例えば、が膝を抱えて眠たそうなのに懸命に起きようとしているときには、構って欲しいという合図であったし、出かけていくキルヒアイスの背中にいつまでも玄関先で手を振って見送っているときには、『どうして私は連れて行ってくれないの?』という意味だった。 そして、のんびりと両腕をキルヒアイスに伸ばしてきたときには、抱っこ、という意味。 だからキルヒアイスは、当時から二人の間を隔てていた身長差を、が抱きつきやすい位置まで縮めてやって、子供の小さな身体を抱き上げてやるのが常であった。 しかもそれは、彼の両親にはすることの無い、キルヒアイスにだけ訴えかけられる合図であったから、キルヒアイスは多少の優越感に浸ったものだ。 それなのに。 「、最近は、僕に抱っこされたくない?」 「え?抱っこ?」 肩を並べてキルヒアイスと歩いていたは、横から零れたその言葉に思わず彼の顔を見上げた。 キルヒアイスは何だか面白くなさそうに小さなため息を吐いている。 「どうしたの? 急に…。」 「別に、たいしたことじゃないんだけどね。」 本当にたいしたことじゃないのだ。 と暮らし始めてしばらく経った頃から、彼女はキルヒアイスに腕を伸ばしてこなくなった。 代わりに、というか、もっと近くにいることが出来るようになったから、良いといえばいいのだけれど。 だけどそんな至近距離のスキンシップを、まさか獅子の泉でするわけにもいかない。 否、それが自分に与えられた執務室ならまだ考慮の余地はあるのだけれど。 つまりキルヒアイスは、見せ付けたいのだ。 が、キルヒアイスを求めている、ということを。 「少し前までは、良く僕に抱きついてきていただろう?」 「ああ、それはね…」 どうやら理由があるらしいは、弁解をしようとしたようだが、彼女の鈴のような声が言い訳を言葉にするより早く、は頬を真っ赤に染めてしまった。 「?」 「何でもない! 何でもないの!」 驚いたのは、キルヒアイスのほうだ。 何しろ、今日はまだが赤くなるようなことは何もしていない。 だけど、真っ赤になってしまったは少し涙で眼を潤ませながら必死に顔を元に戻そうと、白い手でぱたぱたと自分の顔を仰いでいて、それがキルヒアイスにはどうしても我慢ならない。 執務室なら、許容範囲だろうか、と。 些か真剣に考え始めたところで、は恨めしげにキルヒアイスを見上げてきた。 「あのね、ジークがね、ジークのせいなんだからね!」 「僕?」 さっぱり意味の通じない言葉で、必死の抵抗をしてくるに、キルヒアイスは他意は無く問い返す。 普段だったら、その八割は分かっていて聞き返すのだが、今回ばっかりは本当に分からないのだから仕方が無い。 出来れば聞き返して欲しくなかったらしいは、見上げていた視線をまたおろして、何処か別の場所へ泳がせて逃げようとしていたが、キルヒアイスは絶妙な具合でそれを捕まえた。 「教えて、。 何が、僕のせいなの?」 身を屈めて、頤を捉えて、至近距離で見つめる。 それだけで、また少しの表情を覆い隠していた赤が、濃くなったような気がした。 何度かぱくぱくと口を開閉させてから、は消え入りそうな声で答えた。 「あのね、今は、家ですごく一杯抱っこしてくれるでしょう? だからね、充電が満タンなの。」 「抱っこって、。」 思わず呆れたような声で返してしまったが、キルヒアイスは笑みを押し殺すことができなかった。 家でする『抱っこ』というのは、いわゆる無邪気な意味でのそれではないから。 と自分の間には、大小さまざまに違う意味を含んだ同じ言葉が存在するのだが、今のが口にした『抱っこ』と、自分が示していた『抱っこ』では、また大分意味が違うというのに。 が真っ赤になった意味がようやく理解できたキルヒアイスは、彼女が恥ずかしがって逃げ出してしまう前に、もう一度捕獲しなおしておくことに決めた。 今は何を言っても、きっとは恥ずかしがってしまうだろう。 けれど、幸いにも自分達の間には、暗黙の了解というか、行動が何を示していて、何を求めているか、漠然とはしていても言葉にする前に理解できる合図のようなものが多いから。 キルヒアイスは、非言語的コミュニケーションをフルに発揮して、の前に自分の両腕を広げた。 少し戸惑ったは、視線を左右に泳がせてから、それでも抗いきれない感情に背を押されてキルヒアイスの腕の中に納まる。 まるでこの世の至宝を抱きしめるかのように、キルヒアイスは両腕でしっかりとを抱き上げると、その頬に一つキスを落として囁いた。 「、僕の充電はいつでも切れそうなんだ。 だから、君が満タンでも僕の為に抱きついてきて欲しいな。」 「ジークは、充電パックを先に交換するべきだわ。」 キルヒアイスの言葉に、は擽ったそうに笑って顔を寄せた。 まだ少し恥ずかしさで染まった真っ赤になった顔を隠すには、そうすることが一番確実だと知っていたから。 |
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