「ねぇ、ジーク。知っている?」 不意に声をかけられて、キルヒアイスは視線を落としていた書類から眼を離し、カウンター式になっているキッチンで料理に勤しむの方に視線を向けた。 何を作ろうとしているのか、はレモンを手にしたまま、それをじっと見つめている。 「ファーストキスって、レモンの味がするんですって。」 「は?」 ふふっと笑いながらレモンにナイフを切れ込むに、キルヒアイスは思わず間抜けな声を返してしまった。 はそれっきり、その話題について続ける意思はないらしく、レモンを輪切りにしていく事に没頭していく。 何となく、そのまま流すのも憚られる感じがして、キルヒアイスは手にしていた持ち帰り残業をローテーブルに放り投げるとソファから身を起こしながら問い掛けた。 「また、急になんだい?ファーストキスって。」 「そういうお話を聞いたから。」 「それで?」 「それでって…。それだけよ?」 意識を集中させていたレモンを切り終えて、顔を上げればキルヒアイスはもう既にそこまで来ていた。 それだけに留まらず、キルヒアイスは背後からを抱きしめてその耳元で問い掛ける。 「本当に?」 からかわれている、と、分かっていても。 そうされてしまうと、擽ったさに身体が飛び上がってしまうし、そんな反応をしてしまう自分が恥ずかしくて頬に血が昇ってくる。 くつくつと、笑う声が耳元に続いて、一つ深呼吸をすると、キルヒアイスの腕の中で反転してちょうど眼の前にあるその胸板を押し返した。 「本当よ。ただ少し、本当なのかなって思っただけ。だって私、いつもキスの味なんて分からないんだもの。」 初めは怒るような口調だったも、語尾は掠れてしまった。 代わりに頬を染めている赤が濃くなって、何を思い出しているのやらと、キルヒアイスの口元をしならせる。 は分かっていない、と、キルヒアイスは思う。 そういう反応を示すから、手を出したくなるというのに。 「レモンの味なんて分かる程、余裕が無かったんだもの。」 別に、それはファーストキスに限ったことではないけれど。 触れるだけのキスなら、からだって何度となくしているけれど、睫毛の長さまで測れそうなほど近い距離にキルヒアイスの顔があることが何だかとても恥ずかしくてすぐ逃げていってしまう。 かと言って、キルヒアイスからのキスは他の事を考えるだけの余裕が、微塵も無いキスだから。 だから小耳に挟んだその話が気になったのだ。 今、レモンを切っていたから、余計に。 「、レモン味のキスがしたいのかい?」 「したいって、そんなんじゃなくて、ただ…」 「僕は余りお勧め出来ないと思うんだけど。」 笑って続けたキルヒアイスは、まな板の上で均等の厚さに切られた輪切りのレモンを一つ摘んで口に放り投げると、そのままの方に身を屈めた。 「ジーク…っ!」 何をされるのか察したが逃げようとするも、その綺麗な銀糸ごと後頭部を捕まえて、退路とともに唇を塞ぐ。 呼吸と余裕を奪う、長いキス。 ようやく解放されると、は涙目になって唇を拭った。 「――すっぱい…」 「ファーストキスがこんなに酸っぱかったから、気分が盛り上がらないね。」 身も蓋もない言いように、は脱力しそうになった。 そういう意味じゃないのに、と。 恨めしく思うも、今はそれより呼吸を元に戻す方が先決だ。 なのにキルヒアイスは脱力しそうになって自分にもたれかかっているをキッチン台に座らせると、にっこりと微笑んだのである。 「口直しだよ。」 そう言ってキルヒアイスが手を伸ばした先にあったのは、ガラスの器に計量スプーンごと突っ込まれていた蜂蜜だった。 キルヒアイスは無造作にそれを指で掬うと、まるで紅でも挿すようにの唇に薄く引いていく。 「ジーク、蜂蜜はリップクリームじゃないわ。」 「でも、口直しには必要な調味料だ。」 笑いながら、キルヒアイスは自分の指に絡んだ蜂蜜をぺろりと舐め上げる。 それが何だかとてもなまめかしい動作に思えて、は直視出来ずに思わず顔を俯かせた。 それを、キルヒアイスはすかさず掬い上げて、再びの唇を塞ぐ。 蜂蜜が引かれたの唇も、蜂蜜を含んでいたキルヒアイスの口内も。 甘くて溶けてしまいそうで、酷い目眩がした。 時々の唇を割って侵入しようとするキルヒアイスの舌は、だけど今日は唇の蜂蜜を舐めとるばかりで。 糸を引きそうな余韻を残してキルヒアイスが離れて行くと、彼は真っ赤になったに向けて、不遜な程に余裕の表情で口元に指を這わせながら呟いた。 「甘い。」 蜂蜜なんだから当たり前よ、と。 にはそこで言い返す余裕は無かった。 ただ、その言葉とその動作に、かっと頬が高ぶるのを自覚しただけである。 は睨み付けるようにキルヒアイスに恨めしげな視線をやったが、むろん、そんなものはキルヒアイスを喜ばせだだけであった。 「これくらい甘ければ、盛り上がると思わないかい?」 「――盛り上がられても困るもん。」 むっつりと、拗ねるように言い返したに、キルヒアイスはのどの奥をくつくつと震わせて笑っている。 何だか自分ばっかり悔しくて、はつい思い付くままに手を伸ばして、調味料の中から香りつけのためのバニラエッセンスを手に取った。 一滴二滴と手の平に落として、それを先程キルヒアイスがそうしたように自分の唇に塗る。 バニラの芳香が漂い、酷く甘い香りを纏った紅い唇に、キルヒアイスは釘付けになった。 しかもその扇情的な唇は、向こうから自分に迫って来たのだ。 「仕返しよ。」 と。は確かにそう言ったのだ。 は、自分からは触れるだけのキスしかしない。 だけど唇を重ね合わせれば、キルヒアイスがそれだけに留まらないことも知っていた。 の唇は、酷く抗いがたい甘美な感触をしている。 だけど今度のキスは、それを差し引いても思わずキルヒアイスが止まってしまう味をしていて。 一瞬彼が止まった瞬間、はしてやったり、とばかりに吐息を漏らした。 だが、キルヒアイスが止まったのは本当に一瞬だけで、その後は何事も無かったかの様に口付けを深くしていく。 「んんっ!」 とんだ誤算だ、と、言わんばかりにはキルヒアイスの胸を押し返そうとしたが、その手の平までもを捕らえられてしまうと、もう抗う術は残っていなかった。 そろそろ酸欠の危機を感じ始めた頃になって、ようやくキルヒアイスはを解放した。 そして、今となっては皮肉以外には聞こえない一言を、些か意地の悪い笑みと共に浮かべて。 「苦い。」 甘ったるい香りに反して、酷く苦い味のバニラエッセンス。 だけどキルヒアイスは、それだって残らず舐め取ってしまった。 殆ど捨て身ののささやかな反撃は、結局いつも通りキルヒアイスに軍配をあげて終わってしまった。 「酷いな、。」 その上、全然『酷い』なんて思ってなどいないような声でそんな事を言われても、にはどうしようもない。 「ジークは、私を、殺す気?」 「その時は、僕も一緒に柩に入るよ。」 そんな事を言って欲しい訳じゃ無かったのに。 肩で呼吸を整えながら少し困惑したように眉を寄せるに、キルヒアイスは静かに笑った。 手を伸ばして、の髪に触れる。 きちんととかして綺麗に巻かれた髪は、バニラエッセンス等に負けないくらいとても良い匂いがする。 それに指を絡ませて、唇とは異なった感触を楽しんでから、キルヒアイスはの呼吸が整うまで待った。 そして、髪に絡ませていた指を、のほんのりと染まっている頬に這わせて。 くっ、と。 引き寄せられたかと思った瞬間に、はまた奪われていた。 「やっぱり素材の味が一番だね。」 今度は、いつもがするそれと同じ、触れるだけのキス。 唇同士が重なる感触は本当に一瞬だったが、キルヒアイスは名残惜しむように呼吸が触れる距離から中々離れなくて。 「あ…ジーク…」 不意打ちを理解するまで少しかかったが、ようやく思い出したかのように呟く。 また頬に赤を重ねるのを見て、キルヒアイスは苦笑めいた笑みを口元に滲ませた。 そして、下から上へと、の唇にぺろりと舌を這わせて。 「ごちそうさま。」 ぽやんと熱に浮かされた表情でキルヒアイスのその笑みを見ていたが、短い睦み合いの間に床に散らばってしまったレモンや半分零れて大変な事になっている蜂蜜に気付くまでは、まだ少しかかりそうだった。 |
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