獅子の泉の中には、無論というか、謁見を待つ間の待合室が存在するし、登庁するもの達が休めるようになっている部屋もいくつかある。 その中でも、もっとも日常の生活観に溢れている部屋が、事実上に与えられたその部屋だった。 ラインハルトやキルヒアイスの執務室や、元帥や将官など顔馴染みの軍人などが割りと集まる会議室に近いその部屋に、今日はの二人の友人が訪ねていた。 どうして自宅に招かないのかという話ならば、それは『偶然』という言葉で片付けられただろう。 「様、様。」 白を基調としたワンピースを着たは、が持参した眼にも鮮やかなピンク色のケーキを皿に切り分けて、テーブルに並べながら二人の名前を呼ぶ。 何もいれずストレートで紅茶を楽しんでいたと、差し入れのケーキを前に品質保証書が着いた宝石並みに眼を輝かせていたは同時に視線を上げてを見た。 空になった銀の盆を抱えたは、おもむろに口を開く。 「人を興奮させるにはどうしたらいいと思いますか?」 突拍子も無い発言だったが、もも驚かなかった。 は何やら結構真剣に考え込んでいる様子であったし、そもそも突拍子も無い発言はの専売特許であったが、突拍子も無い発想と突拍子も無い行動は、それぞれとも得意とするところであったから。 「興奮って、。誘惑でもするのですか?」 一瞬止めた手を再開させて、は桃色三号の生クリームにフォークを突き刺しながらおっとりと笑う。 それを見て、自分も再び紅茶に口をつけようとしたは、少し迷ってからクリームを落とし込んだ。 の問いに、はうふふっと笑うと、その隣に腰を下ろし、自分の分の紅茶とケーキに手を伸ばす。 何か、悪戯を考えているらしい、と、悟ったとは、の質問に適した答えは無いかと思考をめぐらせた。 「うーん…うちはどちらからとも無くって感じですからねぇ。誘ったり、誘われたり、挑発したり?」 「まあ、仲がよろしいのですね。」 はいたって真面目に答えたのだが、は無邪気に両手を胸で組んできゃあきゃあ喜んでいる。 実のところ、バカップルぶりならとキルヒアイスの右に出るものなどいないというのが獅子の泉 うっかり苦笑を浮かべただったが、が、まるで憧れの人を見るようにうっとりと眼を輝かせてこちらに視線を向けているから、下手な表情は出来ない。 「薬を使ってしまえば、簡単だと思いますよ。」 それを察したは助け舟を出してみたが、どうも舟の出し方は若干間違った方向へ向いていたらしい。 第三者がいたとすれば、強制沈没間違いない話題を、はきょとりと聞き返した。 「薬、ですか?」 「様はそんなものまでお持ちなんですか?」 いったい何の薬だろう、と。知らないは首を傾げる。 そんなものまで持っているのですか、と。知っているは関心と呆れを半分ずつ混ぜた表情でを見やる。 二対四本の視線を受けたは、あっさりと笑って答えた。 「持っていると言うか…。仕事柄、薬の類は一通り調べたことがあるんです。」 閣下が浮気をする機会でもあれば、腹いせに、いえ、嫌がらせとして…ええっと、妻の余裕としてポケットに忍ばせるくらいの配慮があってもいいかもしれませんね、と。 は秀麗な造形をした顔を花のように綻ばせる。 そんなことをしたら、ロイエンタールは浮気もそこそこにを殴るために帰ってくるだろう。 書類上の夫婦でしか無く、互いの行動を制限出来るような間柄ではないと認識しているとしては、とりあえずそれで充分なのである。 だが、その関係を良く理解していないは、根本の薬が何の効果を示すものなのかというところから疑問符を浮かべて曖昧に微笑んでいる。 軍人であるは、仕事柄というに、そんな必要がある部署などあったかと小さく首をかしげた。 だが、それ以上は突っ込ませない微笑を浮かべたは、再び幸せそうにケーキをつつき始めたので、ともそれに習って一口二口、幸福と直結しているスウィーツに手を伸ばした。 おしゃべりも楽しいのだが、自然と菓子を口にしているときには沈黙になってしまう。 無言で幸せを噛み締めているとに、幸せの製作者はひっそりと満足げに微笑を浮かべて自分もピンク色のケーキを一口分フォークで切り分ける。 半分ほど堪能したところで、はまた思い出したかのように 口を開いた。 「誘惑する以外には、何か方法ってあると思いますか?」 そういえば、そんな話題だった、と。 ケーキに気を取られていた客人の二人は、同時に菓子が乗った皿をテーブルに戻した。 口直しの為にティーカップを手に取り、一口含んでからが笑う。 「キルヒアイス閣下ならきっとが誘惑すれば一発ですよ。」 「その通りです。キルヒアイス閣下なら、様が両手を組んで眼を瞑って顔の角度を斜め四十五度に設定しただけで興奮してくれますよ。」 これが帝国の宰相に対する、との認識なのだろう。 表向きは有能な宰相として知られるキルヒアイスの本性を、二人は良く知っているようだった。 否、それはラインハルトとの距離が物理的に近ければ近いものほど、良く知られている話なのだけれど。 妙に具体的な助言をされたは、しかし少し困惑したように笑って答えた。 「えーっと、ジークならそれでもいいかも知れないのですけど、ジークじゃないので。他の方でも、両手を組んで眼を瞑って顔の角度を斜め四十五度に設定しただけで興奮してくれるでしょうか?」 同時多発テロの犯行予告声明が来たって、自分達は此処まで思考回路が完璧に停止したりはしないだろう、と。 の問題発言を聞いた二人は瞬間的に固まった。 実にさりげなく、そして驚異的な威力を持った爆弾を、ひょいっと片手で投げてしまうのが、どうやらの特技の一つであるらしい。 一瞬にして、キルヒアイスのブリザードまで思考が直結したとは、互いに小さく視線を合わせてから、呑気に紅茶に砂糖とクリームを落としているを見て、慎重に問いかけてみた。 「――、浮気するつもりですか?」 「キルヒアイス閣下がご乱心してしまいますよ?」 本当なら、泣き叫んで縋ってでも、止めるべきなのかもしれない。 ビッテンフェルトやファーレンハイトやミュラーなどなら、そうしたかも知れない。 つまりはそれだけキルヒアイスが盲目的にを愛していることを、周囲は知っていたし、その関係が壊れてしまったときにキルヒアイスがどんな行動に出るか、簡単に想像がついたのである。 多分、未だにそれを知らないのは、キルヒアイスの人目を憚らない行為すら「相変わらず仲か良い兄妹だな」の一言で片付けるラインハルトくらいのものだろう。 ついでに言うなら、もキルヒアイスが自分に向けてくる感情に対して、おそらくは過小評価している。 正確な意味で自分に向けられている感情を知れば、普通は怯えるか逃げるだろう、というのが、獅子の泉 だが、はとの言葉を、大慌てで否定した。 「ち、違います!ただ、ルッツ提督の目が、興奮すると藤色を帯びた綺麗な色になるって聞いたので、見てみたいなって思って。」 「ああ、なる程。それで興奮させる方法なんですね?」 何処か安堵したような声になってしまったのは、無理も無い。 慌ててしまったのか、あらぬ誤解をさせてしまったことが恥ずかしいのか、ほんのりと顔を紅くしたに、納得したとはひっそりと深い呼吸を落とした。 とりあえず、新銀河帝国存亡の危機は回避されたらしい。 「それにしても、どうして瞳の色が変わるのでしょうか?」 「そうですね…考えてみれば、不思議ですよね…。」 どうしたって、紅以外の色にならないは、無意識にか自分の目蓋に触れるように呟く。 同じ色の瞳を持つは、同じ様に目蓋に触れて、同じ様に呟く。 鮮やか過ぎるところまで同じ色をした紅い瞳は、黒一色の瞳を持つから見ると、ルビーのようで美しいと思うのだけれど、やはりそれ以外の生々しいものを連想させることも多かったから。 今ではもも気にはしないが、幼い頃はそれなりにコンプレックスであったこともあるのかもしれない。 血の色を連想させる、禍々しいほど鮮やかな紅を。 「眼球にある毛細血管の色が出るのかも知れませんね。」 不意にが応えて、とは同時に顔を上げた。 最後の一口を上品な動作で口に放置込んだは、いち早くケーキを食べ終わって使用目的を全うしたフォークを、指示棒のように振って続ける。 「アルビノの方の眼が赤いのは、色素が極端に薄いことによって血管の赤が透けてしまうからなんだそうです。」 生物化学はそれほど詳しくは無いのですが、と、前置きをしてから、は更に続けた。 だから、もしかしたらルッツは色素がもともと薄い遺伝子を有しており、だから興奮して血流がよくなると血管の赤が浮き出て、それが生来の瞳の色である青と混ざって藤色を帯びたように見えるのかも知れない、と。 「「なるほど。」」 「根拠も何も無い、ただの憶測ですけれどね。」 思わず感心して、声が揃ってしまったとに、は苦笑を浮かべながらティーポットから二杯目の紅茶を注ぎ、今度はクリームをたっぷり落とした。 ケーキと紅茶を楽しむ手を再開させた銀髪紅眼の女性のうちの一人、は、はひっそりと思考をめぐらせる。 同じ理屈で言うなら、血の色に例えられるこの瞳も納得できるだろう。 例えられるどころか、正真正銘血の色が透けているのならば、それ以外に例えようも無いのだから。 しかし、あまり深刻にモノを考えないらしいは、のほほんと自分の疑問を口にした。 「様、もしかして、ジークの髪が赤いのも血液の色かしら?」 全く持って意味不明である。 ほんの少しだけ、真面目なことを考えていたは、うっかり紅茶を噴出しそうになった。 もし髪の毛に血管が通っていたら、美容院は大変なことになるな、と思いながら、はひっそりとハンカチをに差し出す。 「残念ながら、髪の毛の色は血液とは関係ないですよ。」 「そうですか…。残念です。」 ジークも色素が薄いってことになれば、きっと瞳の色も綺麗な紫に変わると思ったのに、と。 は本当に残念そうな表情で、ティーカップを手に取った。 興奮と誘惑がどうやらイコールで繋がりそうな会話の流れを前提にすると、どうやらが興奮させられそうな相手はキルヒアイスしかいないのだ。 どうしても藤色の瞳を見ることを諦めきれないらしいに、惨事になる前に堪えきったは、呼吸を整えて笑った。 「様、確かめてみればいいのですよ。この際思いっきりキルヒアイス閣下を興奮させてみてはどうですか?」 「ジークに、ですか?」 うーん、と。 はなにやら悩んでいる様子だ。 ちなみに、は、『もし実行するとしたら、今日のお茶会の会話は念のため口外しないようにしてくださいね』と、自衛の策を打っておくことも忘れなかった。 バレれば死活問題に直結するであろう悪巧みを、分かっていてもやってしまうの性格に、は何だか親近感を感じずにはいられない。 もちろん、苦笑を滲ませながらだが。 はどうやら本気で目標対象をルッツからキルヒアイスに変更するか否かを考えているらしく、クリームのせいで透明度を失った紅茶をにらみ合いをしながらうんうん唸っている。 きっと、興奮させてしまえば確実に藤色の瞳が見られるであろうルッツと、実行はルッツよりも簡単だろうが、藤色になるかどうか分からないキルヒアイス。 端から見れば素晴らしくくだらない、無意味極まりない選択である。 とは互いに顔を見合わせて、その様子に苦笑を見せたが、『冗談ですよ』と告げるより早く、を現実に戻したのは軽いノックの音だった。 「、居るかい?」 「あ、はぁい!」 とにも聞き覚えのあるその声は、話題の渦中に人物の内の一人だ。 突如として表れたキルヒアイスを、は満面の笑みで出迎える。 「ああ、フラウ・ロイエンタールとフラウ・キスリング。いらっしゃってたのですか。」 の背後にその姿を見つけたキルヒアイスは、おっとりと微笑んで声をかける。 本性さえ知らなければ、誰だって騙されるだろうなというような微笑だ。 とは立ち上がって一礼をしようとしたが、キルヒアイスはそれを収めてに向き直った。 どうやら仕事ではなく、私事でを訪れたらしいキルヒアイスは、一つ二つとプライベートな会話をしているようで、も軽く相槌を打っている。 とは、なるべく会話を聞かないようにしていたが、それでもうっかり聞こえてくる話の中に、先ほどまでに自分達の会話が聞かれていた兆候が無いことを確認することを省くことは出来なかった。 不躾かもしれないが、これだけは外すことが出来ない項目だ。 「それじゃあ。僕はもう行くから。遅くなると思うから、戸締りに気をつけて。」 「分かったわ。ジークもお仕事頑張ってね。」 手短に用件を伝えたキルヒアイスを、は手をひらひらと振って見送る。 だが、キルヒアイスが部屋を出ようとしたところで、は急に思い出したように声をかけた。 最早自爆テロとしか思えない、その内容はといえば。 「ねえ、ジーク。ジークは、どんな時に興奮するの?」 先ほど惨劇を堪えたは、今度は耐え切れなかった。 はに差し出したハンカチを、反射的に捜し求めた。 ごく普通の反応だったのは一人のみで、脈絡も無いことを聞かれたキルヒアイスは一瞬全身の反応を止めてから、ゆるりと振り返った。 その表情の、楽しそうなことといったらない。 「がベビードールでバニーの耳を付けてくれたら、これ以上ないくらい興奮すると思うよ?」 ベビードールというのは、アレか。 以前、着せ替えファッションショーを行ったときにノリでが用意した、結婚祝いの返礼。 とは、そう思いながらも、とキルヒアイスの方に視線を向けることが出来なかった。 対して、飄々と応えたキルヒアイスに、は非常に困惑したような表情になった。 そんなの着れない、と、何度も訴えたのだが、どうやらキルヒアイスはまだまだ諦めていないらしい。 となると、どうしても羞恥が勝ってベビードールを着る決心が出来ないの選択肢は、自然と削られてしまう。 だからは、自分の思考回路では繋がっている話題を、そのまま口にした。 「でも、それを他の人にするわけにはいかないでしょう?」 ならば、藤色の瞳を見るために、ルッツにはどうすれば良いのか。 もちろんはそういう意味で呟いたのだ。 にもにも、その意味は分かる。 だが、たった今この部屋に訪れ、脈絡も無くそう聞かれたのに、全く予想だにしていなかったことを返されたキルヒアイスは、その一言で表情を一変させた。 笑みには変わりないのに、部屋の温度が急激に下がったことに気付いたのは、一番早く気付くべき以外の二人だったけれど。 「、それは、どういう意味かな?」 無言で微笑みという名のプレッシャーを与えてながら、キルヒアイスはをゆったりとした動作で腕の中にとじこめる。 仕事に行かなくてもいいの?なんて、は思ったが、さすがに纏う空気が変わったキルヒアイスに聞くことは出来なかったから。 「あのね、ル…」 だからちゃんと答えようとしたのに、キルヒアイスはが答える前にその唇を塞いでしまった。 しかもいつまで経っても離れていく気配が無いどころか、どんどん深く侵入してこようとするキルヒアイスに、の短くくぐもった声が不意打ちを非難するように漏れる。 とは思わず天を仰ぎたくなった。 だが、はそれどころではない。 ようやくキルヒアイスがを解放したのは、客人の二人が目のやり場に困って散々視線を彷徨わせてからで。 へなへなと腰が抜けそうなを抱きとめたキルヒアイスは、真っ赤な顔が抗議の声を上げようと呼吸を整える前に、にっこりと寒気がするほど秀麗な顔に微笑を浮かべて宣言した。 「。やっぱり今日は早く帰るから、覚悟しておこうね。」 その一言に、とはの今夜の運命を合掌すると同時に、ベビードールの着方をレクチャーしなければならないのだろうかと、奇妙なプレッシャーを与えてくるキルヒアイスの微笑から、ひっそりと視線を逸らした。 |
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