もうすっかり勝手を知り尽くした異国の遊郭の、行き付けの楼の扉を開けば、知った顔の女が笑う。 「花娘ですね。今日はまだお客を取ってませんから、部屋に居ますよ。」 先代の女主人の時から裏働をしている女は、クロスの顔を見ただけで、彼の意図するところを言い当てた。 決して若すぎる主を名前で呼ばないその女は、今日もクロスが尋ねた少女を源氏名で指す。 勝手知ったる楼を我が物顔で闊歩し、目的の部屋の扉を馴れた手つきで押せば、中には見慣れた内装の部屋が広がっている。 白と黒と少しの紅で整えられた部屋の真ん中に、丸い大きな寝台がおかれていて、白と黒と少しの紅で出来た部屋の主は、ゆったりとその上に寝そべっていた。 部屋を満たす空気は頭の芯が麻痺するような、甘い香りで満たされていて、くらくらする。 ベッドの上で煙管をふかしていた遊女は、入ってきた男に気まずそうな笑みを向けると、カンッと小さく音を立ててそれをしまった。 部屋を訪れた2メートル近い長身を誇る赤毛の男は、軽く舌打ちをする。 ベッドを覆うようにして高い天井に吊された、鳥籠を模した天蓋から薄い紗が何枚も何枚も重ねて吊されているため、その正確な表情をとらえることは出来ないが、その匂いから何を吸っていたかは想像がつく。 思考回路を麻痺させるような甘ったるい空気で埋め尽くされた部屋を、真っ直ぐにベッドへ向かえば、クロスの体に染み付いた煙草の香りが少しだけそれに対抗していた。 「また、吸ってたのか?」 諌めるような声に、寝台に起き上がった少女は困ったように微笑む。 「大丈夫よ。依存性が低いから、中毒になったりはしないわ。」 たかが大麻くらいで。 それでも男は少女をにらむことをやめない。 何度言っても、この娘は自分の意思を曲げようとはしない。 必要と思うことを常に実行する娘に、ならば大麻も彼女にとっては必要な物なのだと思うことにした。 「」 名前を呼べば、彼女はにっこりと微笑む。 「私のこと、名前で呼んだ。今日は仕事で来たのね?」 カンっと金属音を立てて、少女は煙管を簡単に片付ける。 彼女の持つこの遊郭にクロスが訪れるとき、クロスは厳密にその呼び名を変えていた。 女を抱く気で訪れたときには少女をその源氏名の「花娘」と呼び、仕事で来たときには本名である「」と呼び分ける。 今日もその例に漏れず名前で呼び、それだけでどちらが目的か察した利発な少女に、クロスは唇の端を吊り上げる。 そして、上着だけ脱いでそこらへ放ると寝台に上がり、靴を脱ぎもしないまま転がった。 の膝に頭を乗せて、寝転がったまま煙草に火を付ける。 ゆっくりと紫煙を吐き出すと、彼はまだ少女の域を出ない遊女の顔に触れた。 「お前、いくつになった?」 脈絡のない話だが、少女は少し考えてから答える。 「数えでは18。実際の年齢だと17かな?」 さらに深く吸って煙を吐き出すと、肺の奥から苦い香りが伝った。 「仕事はどうだ?」 「順調よ。遊女はいつだって需要が高いから。」 「悪いがしばらく休業だ。」 「それって、本部からの指令?」 「ああ。」 「なら仕方ないわね。」 「いいのか?客が逃げてくぞ?」 からかうように言えば、はころころと鈴を転がすように笑った。 「貴方ね、何年此処と付き合ってるの?」 「少なくとも、お前が腹ん中に居るときには此処に来てたな。」 「なら、いい加減分かるでしょ?此処は黒の教団のサポート極東地区。上が指令を下すなら、サポーターの私たちは従うだけよ。」 は何でもない事のように言い切る。 それが、どれだけ一個人としての自由を奪っていることか知りもせず。 クロスは唇を吊り上げた。 「残念だが、指令が下ったのはお前だけだ。」 「私?」 「あぁ。」 「なら、お店に問題はないわね。」 此処には可愛い子が揃っているから、きっと懇意のお客さんは私がいなくても来てくれるわ。 若い女主人は自分より年上の遊女達を、まるで子供のように言う。 それがこの少女の性格だった。 「それで、恐れ多くもエクソシストでもない私に、一体どんな指令が下ったの?」 白い華奢な手がクロスの口から煙草を奪い、は覗き込むようにしてクロスを見つめた。 「ティンクトラがこれを持ってきた。」 主人が名前を呼んだことに反応したのか、脱ぎ捨てられた上着の隙間から銀色のゴーレムが飛び出す。 その短い手には白い封筒が抱えられていた。 「ティンクトラ、久しぶり。」 昔馴染みにあいさつをする間隔で銀のゴーレムに手を伸ばせば、彼は甘えるように尾をすり寄せてからの頭上に収まった。 受け取った、宛名も差出人の名前もない質素な封筒には黒の教団のシンボルであるローズクロスの蝋印だけが押してあり、厳重な封を施されている。 しかし、それは無造作に破られた後だったので、は難なくそれの中身を出すことが出来た。 四つ折りにされた手紙を開きながら、くすくすと笑う。 「どうして封が開けられているのかしら?」 「文句なら、宛名も差出人の名前も書かなかったに言え。」 「これ、さんからの指令なの?」 久しぶりに聞いた師のたよりに、が嬉しそうに手紙を開けば、見慣れた豪快な文字がならんでいた。 顔面蒼白がお似合いのちゃんへ 切なすぎて白骨化しそうなです。 ちゃんはまるで蒸し焼きの手裏剣のように色っぽい! あなたを思うと寝食を忘れておママゴトがしたくなります。 ちゃんのためなら、犬小屋の中で目薬を指しつつうろつき回ることもできます。 「さんの吐息ってあばれ馬みたいですね」 無邪気に笑うちゃんの横顔が忘れられません。 より PS.服、着てください。 「………。」 「………。」 相変わらずのテンションに、クロスは苦虫を噛み潰したような顔をしている。 相変わらずと言えば相変わらずの師の思考回路から生み出されたなんと答えていいやら分からない内容の手紙に、は困ったような表情でクロスを覗き込んだ。 「私、服着てないのは仕事中だけだよね?」 なんとも的外れなの感想に、クロスはさらに苦い顔を浮かべる。 全く、この妹弟子は見習わなくていいところまで師の影響を受けているようだった。 「というか、これはどういう指令なの?」 ようやくそこを突っ込んだに、クロスは沈み込みそうになる体を起しながら答えた。 「あいつ、前にお前にイノセンス預けただろう?」 「うん。2つ?3つだったかな?」 「取りに来るのが面倒くさいから、持って来いって内容だ。」 さらりと言われて、一瞬返事が遅くなった。 「極東の島国から、北欧の本部まで?」 「あぁ。」 「………」 確かに面倒くさいだろう。 でも、だからって…… 「持って来いとか、簡単に言うかな?」 さすがに意識が飛びそうになった ちょっとだけ、助けを求めるような視線をクロスに送ってみる。 寝台の上で上半身だけ起したクロスは、背後の視線の意味に気付くと、意地悪く笑って言った。 「ちょうどいい、俺のもついでに持って行け。」 助け舟をくれるどころか、間接的には「とっとと行って来い」と言われたは、これ見よがしに大きく息を吐き出した。 何だか理不尽な事を突きつけたれたような気がする。 無理を承知で、あらたな煙草に火をつけ始めたクロスの背中に誘いをかけてみた。 「どうせなら、一緒に行こうよ。」 「俺はあそこが嫌いなんだよ。」 「元帥の癖に、職務怠慢じゃないの?」 「何とでも言いやがれ。」 「私、本部なんて行ったことないわ。」 「ティンクトラを付けてやる。俺の持ってるイノセンスも、こいつに飲ませとく。」 「女の子に一人旅をさせるつもり」 「ヘンなヤツに絡まれても、殺すなよ?」 つまり、この男は自分を心配して止めるどころか、大いに行かせるつもりらしい。 今度こそ本当に諦めの溜息をついて、はクロスの背中にしなだれかかった。 「どうして急に、お呼びがかかったのかしら?」 「ノアが活動を開始したからだろ。」 「そんなに激しく動き出したの?」 「何人かエクソシストが殺されて、イノセンスが奪われたんだ。」 「それは、行かないわけには行かないわね。」 は、頭の悪い少女ではない。 そんな事態なら、一個人が複数のイノセンスを持っているよりも、教団本部のイノセンスの番人のもとへ集めてしまったほうが遥かに安全だ。 そして元帥が持っていくより、のような末端のサポーターが行動したほうが、狙われる可能性は遥かに低い。 「まぁ、危険なことには変わりないが、お前は特殊だからな。」 「まぁね。否定はしないけど。」 はにっこりと微笑む。 それを見て、クロスは苦虫を噛み潰したような表情で髪を掻き揚げた。 「此処から本部までは遠いな。」 「想像もつかないくらいね。」 ぽつりと呟かれた言葉に茶々を入れれば、クロスは同じように短く口元を吊り上げて続ける。 吐き出された紫煙は、どこか甘い香りがした。 「そうじゃない。お前がこの指令を拒否しても、此処までは手は伸びてこないってことだ。」 「そうね。私はエクソシストじゃないから、イノセンスに裁かれる心配も無いし。」 何を言わんとしているのか、瞬時に悟った少女は、どこか遠くを見つめるような視線を彷徨わせた。 「でも、ノアが動き出したのでしょう?」 「あぁ。」 「さんからも手紙が来た。」 「そうだな。」 「しかも、職務怠慢が信条のクロスが持って。」 「悪かったな。」 自分が生まれるよりも前から母との付き合いがある男に対して、は面白そうに笑った。 しかしそれも、すぐに影を潜める。 「行くのか?」 「是」 短か過ぎる言葉で答えた少女は、もう、日本には生きて戻れないかもしれないという懸念を、とうに割り切ってしまっていた。 それでも、自分が柄にも無く心配してしまうのは、この少女を相手に父親のような錯覚を持っていたからかもしれない。 あるいは、生まれたときから教団とのかかわりを持って生きてきたには、是、と頷く選択肢はあっても、否という考えは存在しなかったのかもしれない。 クロスは視界の端にそれを捕らえると、ゆるり背後から首に絡んだの腕をはずして立ち上がった。 床に放ったコートを取り、腕を通す。 「帰るの?泊まっていけばいいのに。」 「生憎、娘を抱く気はないんでね。」 「娘じゃないじゃない。」 「親子二代に渡って手を出す気は無いって言ってんだよ。」 「ふぅん。クロスってそういうの気にしない人だと思ってた。」 「――お前、俺を何だと思っていやがる?」 「えっと、色情狂?」 の軽口を白い目で睨んでくるクロスに、若い遊女はころころと笑った。 黙々と部屋の扉まで歩いていくクロスに、はさらに声をかける。 「娘らしいこと何も出来なくってごめんね。」 女のヒトとしてクロスを満たすことなら出来るかも知れないけど……。 冗談めかして放たれた言葉に、クロスはゆるりと振り返った。 少女はまだ笑っている。 日本人の平均的な女性の身長よりも僅かに低い少女は、2メートルを越える身長の男を首が痛くなるほどの強烈な角度で見上げていた。 「そう思うなら、せめて孫の顔でも見せやがれ。」 煙草の煙を吐き出しながら言えば、はさらに笑って答えた。 「本当に親不孝で悪いけど、クロスをおじいちゃんにすることはもっと無理なの。」 そう言っては、求めるようにクロスに両腕を伸ばす。 その動作は、クロスがその言葉が意味するものを問い詰めるスキすら与えない。 少し気になったが、問いただすことを無言で制されたのなら、大人しく引き下がるべきなのだろう。 少女が望む通り、紫煙を一つ吐き出して屈んでやれば、はにっこりと笑ったまま、クロスの方に両腕を絡めて唇にそっとキスをしてくる。 耳元で囁いてみれば、煙管の名残が香る。 「でも、アイシテルから。」 それだけ、酷く明快な告白をすると、唇も、声も、腕も、これでもかというくらいあっさりとクロスから離れていく。 クロスは無表情でを見やった。 下手をするとイノセンスを奪われるどころか、今生の別れになりかねない状況に、歳も身長も離れた二人は無言で苦笑を交わした。 「じゃあ、行って来ます。」 「気をつけろよ。」 「うん、クロスも。またね。」 最後に短い言葉だけ交わすと、クロスもあっさりとに背を向けた。 名残惜しむような性格を持ち合わせない二人の間に、部屋の扉が静かに閉まる。 「さて、ティンクトラ。教団にはどんなお土産を持っていこうか?」 およそ緊張感の無いのほほんとした口調で、は再び煙管に火を落とした。 |
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