A right way out out of love
続・正しい愛からの脱出法
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書類作成で汚れた手袋を変えていただけだったので、何がそんなにエミールを慌てさせたのか一瞬キスリングはわからなかった。 嵌めなおした手袋をもう一度取ってみせると、より慌ててしまう目線の先を辿った。 「ああ…これか」 親指を除いた指にくっきりと残された赤い歯型に、エミールはすいませんと何度も謝った。 その純粋な反応に思わず苦笑して、わざと痕の付いた方の手を上にして指を組んで見せた。 「隊長!もう、からかわないでください…陛下に言いますよ?」 「ああ、悪い悪い」 「最近お人が悪くなったのではありませんか?キスリング准将」 くつくつと背後からリュッケの声が追いかけてくる。 元々だよ、気づかなかったのかと返せば、解ってましたともと更に上書きされる返事。 「そうだ、准将にお客様です」 「客?俺に?」 開いたドアの方を振り向くと、エミールよりはるかに頬を赤く染めたが立っていた。 胸の辺りで紙袋を抱きしめたまま、今にも蒸発してしまいそうなほどに頼りなかった。 「─フロイライン・クロプシュトック?」 キスリングは慌てて新しい手袋を嵌めなおした。 エミールとリュッケは一礼して席を外す。 何を言ってもこれじゃあ話にならなさそうだ、と目を逸らした。 「あの、先日は大変失礼しまし、た…」 予想通り、もごもごとたどたどしい言葉に反して深々と頭を下げられる。 気にしなくてもフロイラインのせいではないでしょう、と言ったところで余計真っ赤になってしまうだろうな、と考えて慎重に言葉を選ばなければならなかった。首を横に振って、の方へと歩み寄る。 「まあ、…落ちついてください。──その荷物は?」 縮こまってたの体が、しゃんと伸びた。 家族を筆頭に日々苦労を厭わない彼にとっては別段大したことではないのだが、は感心してしまった。 どうぞ、と差し出されたカップの中身が砂糖入りのミルクティーであったり、顔に出ないだけで、よく気がつく人なのだ。 それに気がつくと、は一気に緊張が解けた為に思わず口にしてもう一度深く頭を下げた。 「いつもラインハルトとジークがお世話になってます」 予想外の返答にキスリングは一瞬目を見張った。どう答えればいいんだろうと考えている間にが先に口を開いた。 「あっ、荷物。様のお洋服なんです。直接お返ししようと思ったのですが、今日はお休みなのですか?」 「いや、通常勤務の筈ですが。何処かで油でも売ってるんでしょう、渡しておきますよ」 わざわざ有難う御座います、と丁寧に礼を述べられて、今度はが首を横に振った。 ついでに、元に戻っていた顔色もまた赤く染められて。 は極力想像しないように務めていた。自分達がしたこともキスリングは知っているし、またその逆も然りなのだ。 じりじりとが後ろに下がっていくのを見て、やっぱり何を言ってもこうなるだろうと予測した通りだった。 「少々お待ち下さい」 デスクのヴィジホンに手を伸ばした。 途切れ途切れになった映像と声はのもので、しーっ、と人差し指を唇にあてている。 キスリングの言った通り、間違いなくさぼっていることはその様子で十分伝わった。 「何処にいるんだお前は」 「軍務省!フェルナーにとっ捕まって逃げてるの。助けて」 「逃げるようなことをしたのか」 「してない。私は何もしてません。強いていえば───これが見つかったのが原因です」 は髪をかきあげると、耳の下あたりに浮かんだ真新しい紅い印を見せた。 思わず口を開けたまま固まってしまったのは、キスリングだけではなかった。 しかしのモニターにはは映っていない。 「気付かなかった私も迂闊だけど、貴方も相当迂闊よ。しばらくフェルナーは避けて通りなさい!」 「……」 「この分だと他にもあるんじゃない?覚えてる限りでいいから教えて!」 「いいから黙れ」 「電話しておいて黙るも何もないでしょ」 次の瞬間、の紅い眼が固まった。 画面の端に、金魚の如く真っ赤になったが映りこんだのだから。 「…?」 「ご、ごめんなさい様!」 今日何度目になるかわからない謝辞を繰り返しながら頭を下げるは決して悪いことなど何もしていない。 キルヒアイスの「ごゆっくり」という言葉をそのまま解したがキスリングを誘ってこうなった姿なのだ。 寧ろ謝らなくてはいけないのはこちらなのだが、ととキスリングは同時に思った。 「、落ち着いてください。今すぐ参りますから!」 「是非そうしてくれ」 頭が割れそうだ、とキスリングが軽いため息を飲み込んでの代わりに答えた。 ぶつんと乱暴に切られたヴィジホンの音と共に、がへなへなと床に座り込む。 もう一度意識をこちら側に戻すには、最後の武器を手に取る必要があるとキスリングは悟った。 「服が汚れますよ、…」 と呼んで下さいと何度も言われながら、そうしてこなかったのには別段理由があったわけでもない。 親しみを込めて呼ぶ必要も、今更あるまいと思っていた。 キルヒアイスが居ればそうはしなかったし(が崩れる前に彼が支えたであろうから)が居てもそれは同じだ。 結局一番年長の自分が苦労を買う必要があるのは、必然。 そしては彼の思った通り、差し伸べた手ごと、意識をようやくこちら側へ戻すことが出来たのだった。 はヴィジホンを切って間も無く到着した。 余程急いでいたのだろうことは誰が見ても明らかなほど、艶やかな髪が乱れていたし、軍服も汚れていた。 「、…すいません」 「様!」 それでもは、両手を広げたの胸に迷わず飛び込んだ。 プロテクターで覆われた、の胸は男性同然の形である故により倒錯的な形になる。 今度こそ、キスリングはため息をついた。 「そうでしたか、今度の休みにでも取りに行こうと思ってたところでした」 洋服を受け取ったは、アイロンまできっちりとかけられたお気に入りのシャツを見て顔を綻ばせた。 そしてくすくすと笑んだ。 「どうかしましたか?」 「いえ、キルヒアイス閣下にもお礼を言っておいてください。また私も改めて伺いますけれども」 「そんなにお気遣い頂かなくたって、いいんです!ジークは!」 顔を赤くすることのなくなったは、今度はだんだん怒りの色が増してきてしまったようである。 これでまたお預けとかになったら、獅子の泉にせっかく訪れた春がまた冬へと逆行してしまう。 それだけは二人とも全力で避けねばならなかった。 「でも閣下にはお借りした洋服をお返ししなくてはいけませんから」 借りたのは厳密にはではなく、背格好が近しいキスリングなのだが。 最初は、がキルヒアイスの服に袖を通したのだが、やはり長さが余ってしまってとても着られたものではなかった。 結局キスリングがキルヒアイスの服を着ることになり、二人して「閣下足長っ!細っ!」とか驚いてみたりしていたが、一つ問題があった。 「…ギュンター、ジャケットか何か羽織る物持ってきてる?」 「いや、ない」 当然ながら、下着もプロテクターも持ち合わせがないので、シャツの上から透けるわボタンの間が開くわとそれは結構な見物になってしまっていた。 結局、機嫌のよいキルヒアイスにジャケットを一枚借りて何とか帰ることに成功したのだけれども。 借りる申し出をしたのはキスリングだった。何故生贄同然にならねばならないんだろう、迎えに来ただけなのにと流石に疲労困憊だったが、乗せられてしまった以上は何も言えなかった。 「早く迎えに来なければ奥様を×××にしてと××した挙句、××××させてしまいますよ?」とまで言われたのも利いたのかもしれない。 自分の内に巣食う独占欲に負けたのだ。 「白か黒かどっちがいいか、奥方に聞いて来て下さい」 「いえ、どちらでも」 「じゃあ、黒をお持ちしますね。あちらの方が丈が長くて隠すにはもってこいですよ」 にっこりと凶悪な笑みを持って、キルヒアイスはキスリングの胃に穴を開けるような発言を落とした。 「様?」 「いえ、なんでもないです」 一部始終を回想して、思わずは目を泳がせた。これは言えない。上官の家で秘密を作るなど、自殺行為だ。 もっともキルヒアイスは全く気にしていないのだろう、そこが余計に怖いのだ。 上官でなく友人の家でもあるのだけれど、とはぼんやりしているを窺う。 首筋を隠すように髪を下ろしたまま、ひとつ思い出したことを明るい口調で述べた。 「そうだ。フェルナーは始末しましたよ」 二人の目線が疑問符付きでの首筋に寄せられる。 「違う違う。これとは関係なくて。──ほら、フェルナー准将とビッテンフェルト提督は、胸がある女性が好きだって話です」 「ああ!」 は直ぐに思い出したようだ。 キスリングは無言で、デスクの引き出しを開けた。まだ胃薬があった気がする、と。 次はビッテンフェルト提督です。と不敵に笑ってみせるに、もようやく笑顔を見せた。 |
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