Replica * Fantasy







閑 話 編 08




"A handing down person of right love"? or "Right how to convey love"?
― 正しい愛の伝えかた ―
 超絶機嫌の悪いキルヒアイスは、が待つはずの自宅に帰宅したときも、その機嫌は超絶に悪いままだった。
 普段であれば、キルヒアイスはどれほど嫌なことがあっても、どれほど機嫌が悪くても、それをに悟らせたりしない。
 それはひとえに機嫌が悪いときの自分の空気がどれほど凶悪であるかを自覚してのことであったし、原因がにあるにしろないにしろ、彼はよくも悪くもを溺愛していたから、自分自身のそうした一面をひた隠しにしてきたからである。
 それに、大抵であればキルヒアイスはのその愛らしい笑みで迎え入れられれば心穏やかになるのだ。
 単純極まりないと言ってしまえばそれだけだったが、キルヒアイスにとってはがそれに値する存在であるのだから仕方が無い。
 惚れた弱みというヤツだ。
しかし、その日は帰宅しても氷点下まで降下した彼の空気を和らげる笑みは出迎えてくれなかった。
 どんなに遅くに帰ろうと、キルヒアイスの帰宅の気配を悟れば、はぱたぱたと駆け足で玄関まで出迎えると言うのに、今日に限ってそれがない。
 が、キルヒアイスはすぐにその理由に思い当たった。
に『お預け』と食らってからこちら、不貞腐れたように仕事場に泊り込むようにしたのはキルヒアイス自身である。
 今夜帰ることも伝えていないのだから、はもしかしたら眠っているのかも知れない。
 視線をやった腕時計は、就寝にはまだまだ早い時間をさしていたけれど。
 酷く無邪気で可愛らしい子供に『何だ、キルヒアイス。に三行半でも突きつけられたのか?』と問われた手前、一瞬キルヒアイスの背中につめたいものが流れたような気がしたが、それもおそらくは気のせいであったのだろう。
 無造作にコートを脱ぎながらリビングに向かうが、やはりの姿は見えない。
しかし、何処からともなく笑い声のようなものが聞こえてきたり、時折嬌声のような声が聞こえてくる。


?」


 寝室やら何やら覗いてみたが、やはり答える声も無ければの姿も無い。
仕方なく、と言うよりは、単にキルヒアイスの度量の問題なのだろう。
 家にいるらしいのに出迎えてくれない、しかも何処からか漏れてくる声は嬌声とくれば、『お預け』を食らっている身としては穏やかではいられない。
しかもそれが、家中回った挙句にバスルームから漏れてくるともなれば、なお更捨て置ける状況ではなかった。
 基本的にキルヒアイスは公私にわたってまず第一にを優先している面が度々見られるが、それでも、時と場合による。
たとえ自身がキルヒアイスとの別離を望んだとしても、キルヒアイスは今更を手放す気は微塵も無かったし、そう言った意味では自分自身が一番の脅威になりうる可能性が高いことも、自覚していた。
だからこそキルヒアイスは、にだけはそれをひた隠しにしているというのに、今回ばっかりは理性がきかない。


、不倫は許さないよ?」


 ばたん、と。
前触れも無く泡と嬌声が詰まったバスルームのドアが開かれて、唐突に降り注いだのはそんなマヌケな一言だった。
 いったい何をしていたのか、がそれほど狭くも広くも無いバスタブの中で、奇妙にもつれ合って突然現れたキルヒアイスの方を驚いたように見ていた。


「あれ?ジーク?お帰りなさい。」
「――ただいま。」


 は酷く驚いた様子だったが、それは別に不倫現場を目撃されたからとか、あまつさえ自分がを押し倒しているような状況であったとか、そもそもなんで女同士の風呂を覗くんだとか、そんな些細なことが理由ではなく、今夜は此処に要るはずの無いキルヒアイスがどうしているのだろうということだったらしい。


「しばらく泊り込みで仕事をするとか言ってなかった?」
「――帰らないほうが良かったかな?」
「ううん。帰って来てくれて嬉しい。」


 だって、どうしてしばらく帰らないのかなって思ってたから、と。
その理由がほかならぬ自分自身が出した『お預け』にあるとは思ってもいないは、ほんわーっと嬉しそうに微笑む。
それがバブルバスの中で素っ裸でを押し倒しているなんて状況じゃなければ、キルヒアイスは無条件でを抱きしめて『お預け』と食らって濃度を増した感情を披露していたところだろう。
しかしながら現実にはそうもいかず、この状況が分かっているのかいないのか良く分からないままのは、認識としてキルヒアイスを捕らえてはいるものの、相変わらずから離れる様子も無い。
 これを機にカミングアウトされた場合はどうしようかなどと、些かズレた方向に思考回路を持っていかれそうになるのを、引き止めるのが精一杯だ。
 しかし、はと言えば、呑気にキルヒアイスを見上げて笑うばかりである。


「それじゃあ、ジークも一緒に夕食にしましょう。」


 夕食を一緒にとるのは一週間ぶりくらいかしら?と、はひょっとしたらの存在を忘れているのかも知れない。
 押し倒されたままの自身は、幸いにも鎖骨の辺りから下はバブルバスの泡に隠れているから、それもあって取り乱さずにいられるのかもしれないし、同様に不倫現場を押さえたはずのキルヒアイスも相手がだったことに対してそれほど取り乱さなかったのは、彼女の体がまともに見えたわけでもなかったからだろう。
 というよりは、結局のところ不倫だの浮気だのという話を本気にしていたわけでもなく、かといって本当に男がいたらどうしてくれようとも思わなかったわけではないのだか、それでも温度調節がされた浴室でも鳥肌が立つ程度のブリザードで済んでいるのは相手がだったからに他ならない、とも言える。
 全身の八割が泡の中に沈んでいるに対して、大柄なにへばりついたは上半身がほとんど泡の外である。
その自分の状況も忘れてしまっているらしいの姿は、からしてもキルヒアイスからしても中々に眼を楽しませてくれているのだが、そのまま放置しているわけにも行かない。
 例え現実的な浴室温度は快適な温度に保たれていたとしても、精神的な温度ともいえるキルヒアイスのブリザードがにだけは絶対に感知できないように出来ていたとしても、あまり良くない状況なのである。
だからキルヒアイスは、少し困ったように笑みを作り変えて、非常に眼に楽しい状況のに問いかけた。


「ところで、どうして君はフラウ・キスリングとお風呂に入っているのかな?」


 ちなみに、今の言葉はに向けられているようで実はにも向けられており、その意味するところは「どうして僕が『お預け』を食らっているのに、君はに触っているのかな?」というモノである。
 むろん、に言わせれば不可抗力であるし、実際に触られていたのはではなくむしろの方なのだが、こういうときのキルヒアイスには何を言っても無意味に等しい。
 それを理屈ではなく、本能的に備わった危機回避能力により悟ったは、若干引きつりそうになる顔の筋肉を総動員して、ぎこちないもののとりあえず微笑を浮かべてみた。
無論、は「の体はとても触り心地がいいのですね」などといって、むざむざ天命を短縮するような自虐趣味は無かったから、無難に挨拶をしただけである。


「お邪魔しております、キルヒアイス閣下。」
「歓迎しますよ、フラウ・キスリング。」
「なら、そんな氷点下の視線で切り込まないで下さい。」


と、実際に言えたら自分はその人を無条件で尊敬するだろうな、とは思った。
今更、素っ裸で押し倒されるという体勢から抜け出せていないのだから、マヌケと言えばマヌケな対応であるし、女主であるの招待をきちんと受けているのだから、咎められるいわれも無い。
むしろ風呂=裸を見られた以上、石鹸や風呂桶を投げつけたり芳しいラズベリーの泡を大量に含んだお湯を浴びせかけても謝られこそすれ、怒られるいわれも無い。
 無いのだが、何となく平謝りしたくなるような気分にさせるのが、に対するキルヒアイスの執着の強さなのだろう。
 さて何と返されるか、あるいは何をされるかとバブルバスの下でひっそりとは身構えてもみたが、身構えてどうなるものでもない。


「どうしてって、私がお誘いしたのよ?この前、凄く美味しそうな香りのバブルバスを見つけたから、いかがですかって。」
「ふぅん。それで、もしかするとそのために僕は一週間も接近禁止令を出されたのかな?」
「接近禁止令?」


 そんなもの、出してないじゃない、と。
は小首をかしげる。
 が、キルヒアイスにしてみれば、『したくないの』という意思表示は接近禁止令も同様だ。
近づけば触れたくなる。
触れればその先もしたくなる。
 『ダメ』と言われれば、言われる程に。
だから、わざわざ職場に止まりこんで仕事をしていたと言うのに、どうやらにはまったくキルヒアイスの配慮は伝わっていなかったらしい。


「そう。『ダメ』って、やつだよ。まさかこれが原因だったとはね。」
「待って待って、ジーク。話が良く分からないんだけど…」


 キルヒアイスの独り言にも近いため息に、少し混乱したようにが口を挟めば、彼はまじまじとの肌を見つめながら、飄々として答えた。


「別に毎回跡を残すわけでもないから、何も禁止にすることも無かっただろうって話だよ。」
「痕跡って…」


 その言葉を繰り返さなくても、には分かった。
「あーあ」とも思ったが、あえて自ら地雷を踏むことも無いだろう。
 一方、一度繰り返してからようやくそれが指す意味を悟ったは、見る間に顔を紅くした。
同時にこのなんとも間抜けな状況に、ようやく気付いたらしく、例によって例の如く、緊張感など吹き飛ばしてしまった。


「きゃあああああああ!!!」


 盛大な悲鳴。
そして続いたのは、ばっちゃんという音と、その勢いで舞い上がったシャボンだった。
 唐突に上がった悲鳴に続いて、の泣きそうな声が響く。


「ジーク!何してるの、ジーク!!女の子の入浴を覗くなんて!!」


 とはいうのものの、実際にキルヒアイスの視界に入ってきた裸体はのみであるし、キルヒアイスに言わせればそれこそ『今更』である。
かと言って、見えなければそれでいいという問題でも無いので、キルヒアイスは疲れたように小さく肩を竦めながらを見やった。


「これは失礼いたしました、フラウ・キスリング。」
「あーっと、いえ、大丈夫です。」


 多分ギュンターも貴方が相手では痴漢罪で訴えることも出来ないでしょうし、とは、言わなかったけれど。
 実害が無ければ大して気にもしないらしいは、曖昧に笑って誤魔化したが、しかししっかりと見られていたことに気付いたらしいの方は、簡単には平常心には戻れなかったようで。


「早く出てってよー!ジークの馬鹿!変態!浮気者――っ!!」


 どうやら我に返って現状把握に成功したらしいは、同時に自分の置かれた状況に酷く混乱してしまったらしい。
 とキルヒアイスの感覚では、恋人に裸を見られたところでそこまで取り乱す必要性は感じないのだが、どうやらにはその感覚が当てはまらないようだ。
 それこそ、風呂桶やら石鹸やらを投げつけられそうになる中で、中々に酷い言われようをしたキルヒアイスは少しだけ眉を寄せてを睨んだ。
 勿論、『睨むフリ』だけども。


「浮気者、とは、何のことかな??」
「浮気者は浮気者だもん!早く出て行かないのは様の胸のが魅力的だからよ!人妻と浮気なんか許さないんだからー!!」
、とりあえず落ち着いて。キルヒアイス閣下も。」


 何だか話が変な方向へ持っていかれている、と。
 此処は一応年長者である自分が場を宥めるべきなのだろうか、と。


「――凄い貧乏くじ…」


 だかしかし、うっかり呟いたの言葉は幸いにもの耳にもキルヒアイスの耳にも届かずに終わった。
 痴話喧嘩なら自分はとっとと出て行くべきであるし、馬に蹴られて死ぬのもごめん被りたい。
 しかし放っておくわけにも行かない。
 さめざめと泣き出しそうなと、それを問答無用でキスでもして黙らせようとしているキルヒアイスに割って入るのは大変勇気の要ることでもあったが、何処かお人よしなは結局人騒がせなカップルを見過ごせなかったのである。


、覚悟しておくんだね。」
「ジークこそ!覚悟しときなさいよ!?」


 結局、何処か耳慣れた捨て台詞を吐いてキルヒアイスはバスルームに背を向けたが、もそれに売り言葉に買い言葉とても言うかの様に言い返した。
 最後にバスルームを出て行ったときのキルヒアイスの怖いくらいの微笑を見れば、以外の人間は決してそんな捨て台詞が言い返せないところである。
 と言うよりも、自身もその言葉の意味するところを正確に悟ることが出来れば、きっともうそんな風に言い返したりはしなかっただろう。
 例によって例の如く、キルヒアイスがどういう意味で「覚悟しておけ」と言ったか、ただ一人分かってしまったは、やっぱり一人、小さく天を仰いで呟いた。


「男の人って、どうしてそうなるのかしらねぇ…」






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2009/02/15 



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