「もし、好きな人に、好きな人がいたら、どうする?」 ぽつりと呟かれた言葉に、キルヒアイスはふと手にしていた本から視線を上げた。 キルヒアイスと二人、アンネローゼの居館に向かう地上車の中。 はぼんやりと窓の外に視線をやったまま、自分がポツリと呟いた言葉にさえ気付いていないような、何処か遊離したような様子で、キルヒアイスを見ようとはしなかった。 の言葉に、キルヒアイスは応えるべきか否か少しだけ迷っていた。 それを、どうしてが言うのだ、と。 小さく眼を伏せて考える。 同じ様に窓の手すりにひじをついて、とは反対の方向に視線をやれば。 「今日は、ラインハルともアンネローゼ姉様のところに来るのよね?」 「そうだね。今日は、ラインハルト様は先に行くと言っていたよ。」 沈黙に耐えられなくなったは、話題を逸らそうとしてか、ふとそんなことを漏らした。 関係ないことであれば、キルヒアイスだって会話を交わすことに躊躇いは無い。 ただ、その二人の名前は、今のとキルヒアイスにとってはネックになっている名前だった。 「、さっきの、話だけれど。」 一つずつ、何かを選ぶように。 キルヒアイスは視線を決してに見せないようにしたまま、呟く。 何処か、酷く痛そうな胸のうちを、は小さく押さえた。 「、君なら、そうと分かっていても想いを告げられるかい?」 それは、意地悪な質問だ、と。 は零れそうになる涙を押し返すために眼を伏せる。 そうすることで、ようやくキルヒアイスがを見つめることが出来ることも知らずに。 しばらく眼を伏せて、考え込んでいたのか、拒絶していたのか。 はしばらくの沈黙を挟んでから、ゆるりと小さな声を押し出した。 「他の人の幸せを、奪うなんて出来ないわ。」 の『もし』は、何処までが『もし』の話なのだろう、と、キルヒアイスは思う。 それが、本心であるなら、どんなにいいのに、と、思う。 キルヒアイスはをずっとずっと最初から見つめていた。 まだまだ幼いと思っていたのに、幼い心はそれでも何時しか『選んで』いたのだ。 目の前から消えてしまったときには、どうして手を放したのだと、どれほど後悔したか分からない。 だけど、再会してなお、自分以外の男をその心に秘めたことを知ったときには、それの比にならない程に絶望した。 もしその対象がラインハルトで無かったら、キルヒアイスは今でも自分がどう行動したか分からないくらいに。 だから、は満ち足りた想いに溢れていなければならないはずなのに。 どうしてがそれほど苦しげな表情をするのか、キルヒアイスは推し量ることが出来なかったから。 ラインハルトは、絶対にを裏切らない。 それは自分も同じだと言えるけど、キルヒアイスはラインハルトには勝てないのだ。 だって、ラインハルトは決してを傷付けない。 キルヒアイスはその思いゆえに、を傷付けてしまうけれど、彼は絶対に間違わないと言い切れるから。 それなのに、の心細そうに揺れる、その鈴の音は、キルヒアイスの胸の内を抉る様に浸透してくる。 もう、充分すぎるほど、自分はに侵されているというのに、どうしてそれ以上、此方に境界線を越えさせようとする発言をするのだろう、と。 キルヒアイスはやや自暴自棄にもなっていた。 奪うことを厭わない人間になれるのなら、どれほど楽になれるだろうかと考える。 自分が、周囲が思うほど大人になりきれていないことを、キルヒアイスは自覚していた。 こと、に関しては特に。 キルヒアイスは無理やり大人になろうとしていたのだ。 彼女の幸せを考えるなら、自分の感情をむき出しにするわけには行かないことが第一条件であることなど、明白すぎるくらいに明白なことだから。 それに、キルヒアイスは知っているのだ。 自分が、を裏切ることが無いことと同じくらいに、ラインハルトを裏切ることなど、出来るわけがないということを。 「――。は今、幸せじゃないのかい?」 「――私は、幸せよ。とても、とても、幸せ。」 だから、大丈夫なの、と。 は押しつぶされそうな胸の内を隠して応える。 だけどもう、微笑み返すだけの余裕は、無かったから。 どうか、うわべだけの言葉でも、納得してくれたらいいと、は更に強く眼を閉ざす。 だって、最初から自分が望んだって、奪えるわけが無いのだ。 アンネローゼは、にだって特別な存在だから。 それに、もうとっくにキルヒアイスは選んでいるのだ。 もう十年も前に。 彼は、を置き去りにしてアンネローゼを選んだのだから。 綺麗で優しくて、も大好きな、唯一の『女性』を。 叶うはずが無い、勝てるはずが無い、奪えるわけが無い。 だけど、もしかしたら、望みはあるかも知れない。 ほかならぬキルヒアイスが、の心を動かす力をくれるかも知れない。 だけどそれが、酷く汚いやり方で、卑怯な心だと知っていたから。 結局は自分で自分の心を殺してしまったのだ。 「ねえ、ジーク。私思ったんだけど。」 はようやく深紅の眼を開いて、そこに深紅の髪を映した。 微笑んだ顔が、今にも泣きそうな表情をしていたのに、キルヒアイスはそれは自分の都合のいい錯覚だと思った。 否、そう思い込まないと、多分抱きしめてしまうと思ったから。 「恋人って、所詮は他人同士だから、ひょっとしたらいつかは別れて一生会わなくなる可能性もあるけれど、兄妹なら、ずっと一緒よね?」 だって、家族だもの、と。 妹は総べての不都合なものから目をそらして、血の繋がらない兄を見つめる。 他人同士だって『新しい家族』を作れるけれど。 血の繋がらない『兄妹』は、『恋人』以上に別離の可能性は高いけれど。 それでも今はそれしか救いが無いから。 「そうだね。僕は、いつでもの『家族』だよ。」 本当は、もっと別の形の家族が良かったけれど、と。 もキルヒアイスも、独り胸の内で押し潰されていく感情の名前は、知らない振りを決め込んだ。 そして、はゆるりと手を伸ばしてキルヒアイスの顔に触れる。 その手を取って、キルヒアイスはを抱き寄せた。 顔が見えなければいい。 心がこのまま潰れてしまえばいい。 時間が止まってしまえばいい。 そう願ったキルヒアイスは、を抱きしめる腕に力を込めた。 そう祈ったの眼から、一筋涙が零れ落ちた。 「大好きよ、お兄ちゃん。」 「僕も、を愛してるよ。」 いつの間にか停車した地上車のスモークガラスの向こう側では、この世で最も愛すべき姉弟が、義兄妹がその中から出てくるのを待っていた。 |
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