「ジーク、ラインハルトがいつもお世話になっているようね。」 ラインハルトとの背中を見送ったアンネローゼは、空になったキルヒアイスのティーカップに新たなお茶を注ぎながら呟く。 「いえ、そんなことは、」と、型通りの言葉の中に心情を込めたやり取りをしばらく交わして、そしてアンネローゼは小さく笑った。 「ごめんなさいね、ジーク。私はちっとも代わり映えがしないわ。貴方たちが来ると、どうしてもラインハルとのことが心配になってしまうみたい。」 「それは、当然です。アンネローゼ様にとってラインハルト様は、たった一人血を分けた姉弟ですから。」 「そうね。そうかも知れないわ。」 穏やかな時間に、穏やかな笑顔。 アンネローゼは化粧の香りや香水よりも、紅茶の香りが良く似合う、と。 キルヒアイスは一口紅茶を含みながら思った。 そう、が砂糖菓子なら、アンネローゼは紅茶だ。 温かくて、芳しい。 だけど、時折見せる表情は、キルヒアイスが知るものではなかった。 それは、キルヒアイスとラインハルトが知らない10年の間にアンネローゼが覚えた感情であり、そして10年の年齢を挟んだもが、時折見せるものである。 それを、キルヒアイスは未だにどう捕らえたらいいのか分からない。 「ねえ、ジーク。」 「なんでしょうか?」 アンネローゼは微笑む。 10年前にも見せていた微笑で。 だからキルヒアイスは、僅かに表情を緩めて顔を上げた。 それを待っていたアンネローゼは手に持っていたティーカップをテーブルに戻して真正面からキルヒアイスを見据えた。 「やっぱり、さっきのことは忘れてくれて構わないわ。」 「――さっきのこと?」 一瞬、何の話かキルヒアイスはアンネローゼの言葉を理解できなかった。 「ラインハルトを見守ってやって、という、あの話よ。」 「しかし…」 それが、自分の役目であるはずだ、と。 キルヒアイスは続けようとしたが、アンネローゼは儚げな微笑はキルヒアイスの言葉をやんわりと遮った。 それは、キルヒアイス自身が決めたことであったとしても、アンネローゼはキルヒアイスに縛られて欲しくなかったのだ。 「ジーク、本当に大切なものを見誤っては駄目よ。」 「アンネローゼ様……」 「貴方、に縁談が来たという話を聞いたときに、自分がどんな表情をしていたと思う?」 「それは…」 無論、自分の表情が自分で分かるはずもない。 思わずキルヒアイスは自分の口元を隠すように手の平を触れたが、まさにその反射的な行動こそが、アンネローゼの言葉を認めている証だ。 キルヒアイスの様子に、アンネローゼはまた表情を崩して笑った。 図星ね、とでもいうかのようなその微笑に、キルヒアイスは顔の表面を撫ぜる血流の量が変化したことを自覚した。 アンネローゼの何でも見通してしまうところは、10年の時を経ても変わらない。 「ジーク、今までラインハルトに着いてきてくれてありがとう。そして貴方のことだから、きっとこれからもラインハルトを見守ってくれるのだと思います。」 アンネローゼは、キルヒアイスの手に少しだけ触れてそして10年前と同じ様にそれを握って続けた。 本来なら、皇帝の寵姫に触れるなど、あるまじきことなのかもしれない。 しかし今キルヒアイスの手を取ったのは、寵姫ではなく親友の姉なのだ。 「だけど、貴方自身のことも考えなくては駄目よ、ジーク。大切なものは、ちゃんと手の届くところで守らないと。いつ、何処へ行ってしまうか分からないのだから。」 ラインハルトは自分で自分を守る力があるけれど、には同じものは持っていないのだから、と。 アンネローゼの言葉に、僅かに染まった顔から温度の高い血液が静かに引いていくのを、キルヒアイスは自覚した。 「勿論、最後に選ぶのは自身でしょうね。だけど、その選択肢には貴方が欠かせないはずよ、ジークフリート・キルヒアイス。それを忘れてはいけません。」 「――アンネローゼ様、は…」 白く華奢なアンネローゼの手に、キルヒアイスは自分の手を重ねる。 しかしアンネローゼは、その先を許さなかった。 「ジーク。はね、きっと自分からは求められないの。諦めることに慣れてしまっているから。だけど本当に欲しいもの以外には酷く無頓着だから、何も欲しがらないように見えるのよ。だから私は、もうに諦めて欲しくないの。」 それは、私の感情を押し付けていることになるのかも知れないけれど、と。 アンネローゼは少し寂しそうに続ける。 それは、本当はアンネローゼ自身を指した言葉だったのかもしれない。 キルヒアイスはそう思ったが、それを口にすることは出来なかった。 アンネローゼ自身が、きっとそれを望まないとわかっていたからだ。 「アンネローゼ様、心配なさらないで下さい。は、僕の大切な妹ですから。」 そっと、重ね合った手をアンネローゼの方に帰して、そしてキルヒアイスはぎこちなく微笑む。 安堵させるための言葉を、キルヒアイスは見つけられなかったから。 だから帰された手を胸に、アンネローゼが苦笑めいた笑みを浮かべても、キルヒアイスは驚かなかった。 「そういう意味じゃないのよ」と、アンネローゼが続けても、返す言葉を見つけられなかったのである。 少し考え込むようにティーカップに視線を落としてから、言葉を選ぶように一つずつ応えた。 「――アンネローゼ様、僕には分からないんですよ。」 静かに紡がれた言葉は、自嘲めいた角度を描いて口元を撓らせる。 それは、アンネローゼが知らない10年の間にキルヒアイスに刻まれた種類の笑みだったが、見慣れぬその笑みにも、彼女は怯まなかった。 「――そうね、無理を言ったのかも知れないわ。私も、酷く焦っているのかもしれないし。」 には本当に好きな人を結ばれて欲しいから、と。 いつも微笑を絶やさないアンネローゼが一瞬だけ垣間見せた、何かを愁うような表情に、キルヒアイスは続けて向けられた「ごめんなさいね、これも、忘れてくれて構わないわ。」という言葉にさえ、応えられなかったのだ。 「もっと分かりやすいところに置いといてくれればいいのに。」 「姉様!持ってきました!」 不意に部屋の扉が開き、ワインを手にしたラインハルトと、その脇を軽やかなステップを踏むように軽く駆けてきたが、アンネローゼとキルヒアイスを奇妙に張り詰めた空気から解き放った。 「まあ、ありがとう。」 反射的に応えたアンネローゼには、もういつもの穏やかな微笑が戻ってきていた。 二人を労ってから空けられたヴァン・ローゼは、ワインが飲めないの顔を酷く笑みを誘う形に歪ませたが、表面上笑っていたキルヒアイスも同じ様なものだっただろう。 味なんて、ほとんど分からなかった。 |
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