『ルドルフに可能だったことが、俺には不可能だと思うか』 それを初めてキルヒアイスが聞いたのは、彼らが軍に入る直前の冬だった。 同じ言葉を、が初めて聞いたのは、ほんの一回り分の季節ほど、前の話であるけれど。 そのときは、ラインハルトが何を言わんとしているのか、は上手く理解できていなかった。 分かるような、分からないような。 そんな風に曖昧にごまかしたような気がする。 だけど、今は、世界で二番目に良く理解していると、は自負していた。 無論、一番は常にラインハルトの一歩後ろに控えているキルヒアイスだから。 本当は、曖昧にごまかしただけあって、それを頭で理解するまでには些か時間を要したのだけれど。 「今回も、ご活躍だったそうですね、ローエングラム閣下。元帥への昇進、おめでとうございます。」 「これはフロイライン・クロプシュトック。ありがとうございます。」 アスターテの会戦によってまた一つ武勲を立てたラインハルトが帝国元帥に任じられることが内定し、そのための式典に参列を許された・フォン・クロプシュトック、通称は、式典参列のために黒真珠の間を埋める大貴族や古参の将官たちの隙間を縫うようにラインハルトに近づくと、にっこりと笑って祝辞を述べた。 皇帝がやってくれば、式典はもうじき始まるだろう。 その前の、貴族同士や軍人同士が派閥や閨閥を深める僅かな時間に、は早々にラインハルトのもとへやってきたのだ。 人目が在るせいか、は余所行きの笑みで笑いかけてくるが、ラインハルトに言わせると今ののそれはどうやら怒っているときの笑みなのだ。 無論、この場でが怒る理由など、一つしかない。 は、戦場へ出て行くラインハルトとキルヒアイスが心配で心配で仕方が無いのだ。 だから遠征時には泣きそうな顔を強引に笑みの形に変えて見送り、そして帰還時には安堵のあまり涙腺を崩壊させてしまう。 そしてやれ昇進だ武勲だと少し落ち着いてきた頃に、むっつりと怒り出してしまうのだ。 目的達成のための筋道だと、頭では理解していたとしても、まだ庇護を必要とする年齢のは、感情のほうが勝ってしまうから。 それが分かっているから、ラインハルトもキルヒアイスも苦笑と共に、甘んじてそれを受け止めるのだ。 「ラインハルトなんか、もう知らない。」 「フロイライン、今は不用意に名前を呼ばない方が、都合がいいのでは?」 ふいっと、文句を言って顔を背けるに、まだ少し彼女より分別があると自覚しているラインハルトは、少し困惑したように笑みを浮かべる。 そして、彼はの顔にそっと触れたが、どうやらラインハルトはと名前で呼び合う以上にその行為が波乱を孕んでいるということには気付いていないらしい。 むろん、それはラインハルトの手を拒まないとて同じことなのだろうが。 ラインハルトは少し笑って、ぷっくりと頬を膨らせているの顔に触れる。 片手で掴めてしまいそうなサイズの顔。 両頬を摘むようにすれば、ふっと逃げるようには口から空気を抜く。 それを面白がるようにラインハルトが笑えば、は喜ばせたいわけじゃないのに、と言わんばかりの様子で、また少し拗ねるように頬を膨らせて。 そして振り出しに戻る行為を繰り返している様は、二十歳の兄と十五歳の妹というカテゴリーで見れば、実にほほえましい様子である。 しかし、二十歳の青年と十五歳の少女というカテゴリーで見れば、些かもどかしくも見える様子なのかもしれない。 そしてそれは、周囲の視線が好意的なものであった場合に限られる。 だが今回のこの場合は、ラインハルトとは『好意的』という三文字最初の一文字は、微塵も期待していなかった。 そしてラインハルトとのカテゴライズは、兄妹という酷く主観と私情に塗れたそれではなく、後者のラベルに加えてに『帝国元帥』と『貴族令嬢』という付加価値が付いたものだった。 むろん、その付加価値を形容する言葉は様々であり、両者が共通する目を見張る程の美貌と、対を成したような正反対の造形は、より一層嫉妬と羨望をかき集め、もはやラインハルトとはそんな視線の集中砲火の的でしかなかった。 「グリューネワルト伯爵夫人の威光の余韻か」と、口にするのは、若く美しいに目を付けながらも、のらりくらりと交わされている貴族の子弟たちだろう。 そして「つまはじきにされた家の娘が」と、口にするのは、若く美しいラインハルトに言い寄りながらも手厳しくあしらわれている貴族の令嬢たちに違いない。 ラインハルトはそれらの原因を半分だけ理解していた。 「フロイライン、今日は、私の祝いの場だ。貴女は膨れっ面も愛らしいが、出来れば笑って欲しい。」 「まあ、元帥閣下はお上手ですこと。」 は、怒るよりも呆れ返った。 ラインハルトは、このようなときばかりこんな気の利いたことを言う。 プライベートであれば、笑って「顔が崩れてるぞ、」なんてくらいしか言わないというのに。 もちろん、そこに隠された意味は同じことなのだと言うことくらい、にだって分かるけれど。 多分ラインハルトは、先程から突き刺さって来る視線にたいして牽制しているつもりなのだろう。 には、煽っているようにしか思えないのだが、互いに互いの美貌については寸分の隙もなく理解しているくせに、自身のことになると恐ろしいまでに無頓着になるとラインハルトは、結局のところ、集中砲火に曝される以外に選択肢は無かった。 は小さく溜め息をつくと、何処からともなく白いリボンを着けた紅い薔薇を取り出すと、ラインハルトの前に差し出した。 「では、改めまして申し上げますわ。ローエングラム元帥閣下、この度はご武勲、おめでとうございます。」 けぶるようは笑顔は、裏か表かも推し量れないくらいにみずみずしく輝いていた。 差し出された深紅の薔薇を受け取りつつも、ラインハルトは無造作に渡された一本だけの花束とを、困惑したように交互に見遣った。 「フロイライン、これは?」 「ささやかながら、ローエングラム伯にお祝いですわ。おねだりしたんです。」 「おねだり?」 「はい。さっき摘んだばかりなんです、陛下の薔薇園から。」 ふふっと、少しだけ声を立てて笑ったは、もう一本、雪の様に白い薔薇に真っ赤なリボンをつけた一輪の薔薇の花びらに口付けるように顔の下半分を隠した。 だが、そのささやかな笑い声は、とラインハルトの会話を耳を欹てて聞いていた式典の参列者達の軽いどよめきによって掻き消され、爆弾発言をかまされたラインハルトは、一瞬フリーズしてから睨むように厳しい視線をに向けてきた。 「そうか。陛下の薔薇園から、頂いたのか。」 「はい。陛下がご自慢するだけあって、見事な薔薇でしょう?」 は、そこに存在するものは絶対的な評価でしか認識しない。 美しい薔薇は美しい薔薇であって、誰が美しく咲かせたかはあまり問題ではないのだ。 だから、此処で『陛下』と加えたことについても、あまり深い意味は無かった。 ラインハルトが周囲を牽制していると気付いたから、それに少し乗ってみただけともいえる。 つまりは、それについては周囲にどんな認識を与えるのか、余り意識はしていなかったのだ。 現皇帝、フリードリヒ四世に薔薇をねだったことも、それをラインハルトに渡したことも。 だが、ラインハルトは受け取った薔薇をそこそこに、を睨まずにはいられなかった。 何故、強請った。 俺は、そんなものは要らない、と。 苛烈な光を宿す蒼氷色の目が無言でを責める。 ラインハルトは分かりやすい、と。 は思わず笑みを滲ませたが、その反応はラインハルトを更に不機嫌にさせただけらしい。 「これは、祝いの品としては、些か恐れ多いな。」 かろうじて押し出された声は、怒りを無理矢理押し殺したような声で。 存在自体が金の薔薇のようなラインハルトは、同じく銀の薔薇のような存在感を与えるに、にこりと笑ってみせた。 「フロイライン、陛下に直接お会いする機会があったら、是非に私からも礼を伝えておいて頂けるだろうか?」 「――ええ、喜んで。」 この後すぐ、ラインハルトのための式典が始まり、皇帝は彼の目の前に現れるであろうが、こうした公の場では皇帝に私情が絡んだ話をすることは出来ない。 だからラインハルトは自分より遥かに私情を挟んだ交流を持つであろうに、嫌々ながら、しかし省くことの出来ない社交辞令としてそれを口にしたのだ。 ほとんど同時に、式典開始を告げる音楽が流れ始め、はいかにも不満げな表情をしたラインハルトに苦笑を浮かべながら一度渡した薔薇に手を伸ばした。 そもそも薔薇を持ったまま式典には出られないし、勲章と並べて式典にのぞむ訳にもいかなかったのだろう。 ラインハルトはその手を遮って、皇帝が育てたという曰く付きの薔薇をそのままの胸元に飾ってやった。 擽ったそうに少しだけ身を捩ったの反応に、周囲が如何様な妄想をしようとも、この際はどうでも良かった。 多分このあたりまでが、ラインハルトの限界ぎりぎりの位置での腹芸なのだろうな、と。 は誰もを魅了する余所行きの笑みの裏側で、ひっそりとため息を吐くと、少しだけ面白そうな笑みでラインハルトを見上げてから、互いに反対方向へと足を踏み出した。 |
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