「眼鏡をかけた男の人って、とても素敵だと思うの。」 と、唐突に言われたキルヒアイスは、少しだけ首をかしげた。 それは、遠まわしには、目の悪い男が好きなのか?と。 なにやら不穏な空気を身にまとったキルヒアイスはゆらりとした動作で周囲を見回してみたが、誰にとって幸いというべきか、周囲にも彼の知り合いにもすぐ思い出す範囲の中で眼鏡をかけた人物はいなかった。 義眼が眼鏡に準じるものであるとするならば、きっとオーベルシュタインがキルヒアイスのブリザードに晒されることになっただろうが、そうなったとしてもせいぜい周囲が思うのは「あわよくば共倒れになってくれ」というくらいのものだろう。 何しろ、人望で言えばキルヒアイスはオーベルシュタインの比ではないのだが、それはが絡んでいないときのみの話なのだから。 ついでに言えば、は別に目の悪い男が好きというわけではないようで、どこで調達してきたのか、殆どフレームが無い眼鏡をキルヒアイスにかけようとして背伸びをしている。 つまり、彼女は目の悪い男が好きなのではなく、眼鏡をかけたキルヒアイスの姿が見たいと言っているのだ。 がうふふと笑いながら眼鏡を取り出し、キルヒアイスの方に背伸びをしてくるごく短い時間の間に、自分の思考回路に結論をつけたキルヒアイスは、一瞬前までの不穏な空気をあからさまな程に霧散させて、に微笑む。 「僕に似合うと思って用意してくれたのかい?」 「見たことが無かったから、どうなるかしらって思ったの。」 とキルヒアイスの身長を考えれば、が履いているささやか過ぎる高さのヒールなど、あってないようなものだ。 だから更に頑張って少しでもキルヒアイスの顔に近づこうと背伸びをしているは、バランスも悪く少しぷるぷるしている。 放っておけばそのうち転んでしまうであろうが、この体勢であれば多分自分の方に傾れこんでくるということを見越して、がどうして欲しいか言ってくるまでキルヒアイスは小さな恋人に蕩けるような微笑を浮かべてただ見つめていた。 「ジーク、届かない…。」 「まあ、この身長差じゃね。 渡してくれれば、かけるよ?」 「私が、かけたいの。」 は、「分かっているくせに」とは、言わない。 だからキルヒアイスも、が倒れてくるまで待っているのだ。 それが、楽しい状況になることを知っているから。 だけれども、あまり苛めてしまうとが拗ねてしまうことも知っているキルヒアイスは、ある程度頑張っているを堪能したところで、少しだけ身を屈めてやった。 そのタイミングを逃さなかったは、ひょいっと眼鏡をキルヒアイスにかけると、それで安心してしまったかのようにぷるぷるさせながら均衡を保っていた身体を、ついにキルヒアイスの方へ倒してしまった。 「いたたたた」 「大丈夫かい? 。」 どうやらささやかな高さしかなくても、着地に失敗したらしいは、足首をぐきりと捻ってしまったらしい。 受け止めてはいるものの、そのまま足を着かせることも無いと思ったキルヒアイスは、を床に座らせて自分も屈みこんだ。 どの程度ひねってしまったのか、その細い足首に触れて、問いかける。 「、どう?」 「――かっこいい」 「は?」 だけど、返ってきた言葉は、何だか的外れな言葉で。 反射的に聞き返してしまったのは、キルヒアイスが咄嗟にが何を指して「かっこいい」と言ったのか、認識できていなかった証だろう。 ひねった足のことなど綺麗さっぱり記憶の彼方に吹っ飛ばしてしまったらしいは、ぽやんとキルヒアイスを見つめていた。 「ジーク、凄く眼鏡が似合うのね。」 何だか、いつもの口調とは違う様子でそう言われてしまい、キルヒアイスは急に顔の表面の毛細血管が膨れ上がったような気がした。 それを隠そうとしたわけではないが、反射的にの足首を握っていた手で口元を覆えば、はそれにつられたのか、それとも自分の発言に気付いたのか、同じ様に頬を赤らめてしまった。 何となく、キルヒアイスが眼鏡をかけたところは想像していたのだけれど。 それは想像を軽く上回る勢いで似合っていたから、思わず見とれてしまった。 それに、いつもにっこりと笑ってをからかってくるキルヒアイスが、まさか思わず零した一言に、此処まで動揺するとは思っていなかったから。 たいした一言ではないはずなのに、もつられて動揺してしまったのだ。 「あの、あのね、ジーク。」 「――何だい?」 しどろもどろで視線を泳がせながらが口を開けば、彼女よりはよっぽど柔軟で切り替えの早いキルヒアイスは、一つ咳払いをしてから、いつもより少しだけぎこちない様子で微笑んで、を見つめ返してきた。 「それ、返してもらってもいい?」 それ、というのは、眼鏡のことだろう。 は、不意打ちの爆弾を投げることが得意なようだが、更にキルヒアイスが到底及ばない領域へ思考回路をおいやってしまうこともしばしばであったから、このときもの意図がつかめなかったキルヒアイスは、ほんの少しだけ首をかしげて問い返した。 もちろん、いまだつられて赤面しているとは違い、キルヒアイスは既に平静を取り戻している。 「どうして? は、僕にかけたかったんじゃないのかい?」 「うん、そうなんだけど…。」 少し言葉を切ったは、何となく気まずそうにキルヒアイスを見つめて、また少し頬の色を濃くして、答えた。 「あのね、心臓に悪いの。 何だか、想像以上に似合っているから、見てるとどきどきするの。」 「、君ね…」 そんなことを言われると、襲いたくなってしまうよ、と。 キルヒアイスは咽喉まで出かかった言葉を飲み込んで、一つ、には気付かれないようにため息をついた。 どうせ言っても、は真っ赤になって逃げ出そうとするだけだから。 それなら、有言実行より不言実行の方が一つ二つ手間が少なくてすむ。 「。」 もうすっかり、いつもの調子に立て直してしまったキルヒアイスは、目の前で何が何だか分からずに赤面している恋人に向かって、にっこりと微笑んだ。そして。 「なぁに? ジー…」 ジーク、と。 最後まで言わせる前に、の柔らかい唇を塞ぐ。 さすがに此処が自宅の寝室ではないという認識はしていたから、触れるだけのそれに留まってはいたけれど、の顔を赤色一号で染められたタコ足ウィンナーより赤くするには、充分過ぎる行為であった。 まるで色も行動も金魚のように口をぱくぱくしているの手のひらに、キルヒアイスはかけられた眼鏡を外して丁寧に握らせる。 「分かった、返すよ、。 キスをするには、少し邪魔だしね。」 余計な一言をきっちりつけることも、忘れずに。 キルヒアイスの満面の笑みに返された言葉は、の消え入りそうな声で呟かれた「いじわる」という言葉だけだった。 |
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