元帥府の廊下の真ん中で、なんとも不毛な言い争いを聞いたは、思わず顔を上げてそちらを見遣った。 「ハリセンボンだろう?」 「針千本ですよ。だいたい、ハリセンボンなんて飲みようがないじゃないですか。」 「それなら針千本だって変わらないだろうが。」 何が「はりせんぼん」なのだか良く分からないが、ややムキになって言っているビッテンフェルトに対し、ミュラーは呆れたように言い返している。 そもそも、こんな人目のつくところで、一体何を話していたのだろうか? 暇を持て余していたこともあって、は興味本位で首を突っ込んでみた。 「何をお話になっているんですか?」 恐らく声だけでも彼等はその所有者が誰だか分かっていただろうが、揃って振り返って、視線を少し下げて、そしての少し首をかしげた姿を見て、表情を笑みに切り替えた。 ビッテンフェルトなどは「援軍来たり」と言わんばかりに満面の笑みを浮かべてに問いかける。 「おお、、丁度いい。ハリセンボンだろう?」 「ですから、ハリセンボンではなくて針千本です!」 「えっと、さっきからなにが『はりせんぼん』なのでしょうか?」 それをミュラーは「何度言ったら分かるんですか」と表情だけでぼやきながら訂正する。脈絡も無く話を振られたは、それでもにこやかに笑って、二人の将官に問い返した。ミュラーとビッテンフェルトが二人二様の口調と表情で応える。 「約束を破ったときに飲むものです。」 「約束を破ったときに飲むものだ。」 「約束?」 こてりと、は更に首を傾げる。ひょっとすると、あれだろうか。昔、アンネローゼに教えてもらった小指と小指を絡める、あれ。『ゆびきりげんまん うそついたら はりせんぼんのます ゆびきった』という、あれ。 とすると、気にするべきところは、何を飲むかではないのではないかと、などは思う。 「でしたら、何を飲むかではなくて、そもそも約束を破らなければいいと思いますけど…」 「まぁ、それはそうなのだが…。」 もっともな意見に、ミュラーとビッテンフェルトは思わず苦笑を浮かべる。どうやら話は「はりせんぼん」から「約束」それ自体にずれていってしまっているらしい。別にずれたところで支障が出るような話題でもなかったが。 ミュラーはそう思ったが、どうやら一緒に居た僚友はそうでもなかったらしい。オレンジ色の髪も鮮やかなビッテンフェルトは、を見下ろして言った。 「では、はローエングラム閣下やキルヒアイスと約束をするときは、破ったときのことは言わないのか?」 ビッテンフェルトが問えばは、考えたこともありませんでした、と。さっくりと応える。そういえば、昔はよく指切りをしたが、今では殆どそんなものはしない。そういう年齢でもなければ、破られて困るような約束それ自体をしていないから。 ビッテンフェルトの言葉を受けて、ミュラーが苦笑交じりにそれに加わった。 「まぁ、閣下とキルヒアイスなら、との約束は破らなさそうですしね。」 「いいえ。残念ながら、最近は凄くよく破られてしまいます。」 だから、いちいち約束を破るために針を飲ませていたら、物凄い量になってしまいますね、と。ミュラーのその言葉に対して、はくすくすと笑った。 むろん、それだって彼らの忙しさを知っているから許せるのだ。約束の殆どは、「今度一緒に食事でも」というようなものだし、それ自体、自分を気遣ってくれているからだということを、はちゃんと知っている。 「随分と寛容なんですね。ビッテンフェルト提督は、を見習った方がよろしいですよ。」 に賛同してミュラーが咽喉の奥でくつくつ笑えば、ビッテンフェルトは曖昧に笑って応じた。 そもそも、どうして「はりせんぼん」の話になるのかといえば、何かの折にミュラーがビッテンフェルトに一杯奢るという、約束なのか話題の一環だったのかよく分からない話を、唐突に蒸し返してきたからだった。 ビッテンフェルト自身、奢る奢らないという話自体にはそれほど執着していなかったものの、そのうちずれていった「ハリセンボン」を飲むのか、「針千本」を飲むのかについて、どうやら話がヒートアップしていったらしい。 話の流れを聞いたは、なおも不毛な言い争うをする二人の将官に、呆れてもいいところを楽しそうにくすくすと笑って応えた。 「わたしはハリセンボンじゃなくて、針の方だと思いますけど…」と前置きした上で―ちなみにビッテンフェルトは酷く落胆したようにを見た―、は続ける。 「じゃあ私は、今度から『約束破ったら、針1本飲んでね』って言うことにします。」 「一本?普通は千本じゃないのか?」 帝国には馴染みのない民主主義的解決方法の一つである多数決によって、ハリセンボン説を打ち砕かれたビッテンフェルトは、いつまでも拗ねては居なかった。 の主張に、少し首をかしげて問い返す。ちなみにミュラーは、ごく小さく「貴方が首を傾げても可愛くありませんよ」と呟いたが、幸いにも二人には聞こえなかったようで、はそのまま凶悪に可愛らしい顔を微笑ませて答える。 「千本なんて、飲む方も用意する方も大変でしょう?だから一本で許してあげます。ですから、きっちり飲んで貰うことにしましょう。」 にこりと笑った顔は、とてもそんな拷問を行うような顔ではなかったが、はそれ以上は何を言っても無駄ですからと断言よろしく、花のような笑みを浮かべている。 別に、ミュラーもビッテンフェルトもと交わした約束を破った訳ではなかったが、『針一本』というヤケにリアルな提示に、思わず背筋に冷や汗が伝った。『針千本』など、所詮は現実味も無くさらりと流せるような口約束だが、針が一本ともなれば、何処から出されて突きつけられてもおかしくは無い。 虫一匹殺せないような令嬢の皮を被ったを前に、「流石はキルヒアイスの義妹」と内心で奇妙な感心を覚えた二人であったが、懸命にもそれを口にすることは無かった。 変わりに口から出た言葉といえば。 「一本でも、針を飲むのはごめんですから、との約束は最優先で守ることを誓いましょう。」 「――俺も、不用意な約束は絶対にしないと誓うぞ。」 「まぁ、そうして下さると嬉しいです!」 は花のように微笑んだが、冗談とも本気ともつかないその微笑に、ビッテンフェルトとミュラーは半ば本気で誓いを立てた。 |
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