「何よ!ジークなんて!」 元帥府に響いた声に、その場に居た一般軍人達は見てみぬフリを決め込んだ。 今ではもう、軍人ではないのに元帥府に馴染んでしまっただが、彼女が声を荒げるのは令嬢としても性格としても非常に珍しい。しかもその相手が幼馴染み兼兄兼保護者のキルヒアイスなのだから、余計にだ。 淡々と事務をこなしている元帥府勤めの軍人達は、手元を休ませる事なく聞き耳を立てるに留まっていたが、将官以上の、ラインハルトの艦隊の中核を担っている幕僚の一人、ナイトハルト・ミュラーは、どうしたものかとその様子を前に固まってしまっている。 こんなところで大声を出しているを宥めて、キルヒアイスと共に別室に連れていくか、何も見なかったことにして通り過ぎるか。考えればいくらでもあるだろうに、そのどちらも選択できずにいた。 「もう知らないもん!ジークなんて…ジークなんて…っ!大好きっ!」 わっと泣き出しながら、りすのように身を翻して駆け出した。 何故ヒールを履いたままでそんな速度で走れるのか、ミュラーは関心せざるを得なかった。 同じく、以前感心したらしいビッテンフェルトがに問うたことがあり、はにっこりと微笑を浮かべて「これくらいは嗜みの内ですのよ」と答えたそうだが、それはミュラーの預かり知らぬ所での話である。 それにしても、と、ミュラーは改めてが走り去った廊下を見遣る。 捨て台詞が「大好き」?彼女は何か間違っているのではないか? 全くもって理解ができないでいると、溜息を一つついたキルヒアイスがくるりとこちらを向いて来た。 ミュラーが一瞬身構えてしまったのは無理もないだろう。のぞき見をしてしまったのはこちらの非だ。公衆の面前で喧嘩をする方が悪いなどと、キルヒアイスの微笑を前に言える訳がない。 しかし、キルヒアイスはミュラーの焦りを裏切り、何とは無しに楽しげな苦笑を刻んで呟いた。拍子抜けしたミュラーだったが、外面には一瞬のうちに駆け抜けた動揺など、カケラも見せずに応える。 「おや、ミュラー提督。みっともないところを見られてしまいましたね。」 「いや…。しかし珍しいな、卿とフロイライン・クロプシュトックが喧嘩とは。」 「えぇ。昨日ヴィジホンを入れると約束したのですが、うっかりしていまして。」 「……フロイラインはそれで怒っているのか?」 さすがにそれは幼稚過ぎないか、と、ミュラーが言外に問い掛けると、キルヒアイスはそれを察したのか「最近は構ってやれなかったものですから」と応える。 それで些細なことに腹を立てたのか。 令嬢としては落第点であるが、ミュラーはいかにもらしいと笑った。 「それにしても、捨て台詞が『大好き』というのは……」 「あぁ、昔の名残なんです。」 いわく、昔がまだキルヒアイスの家にいた頃、同じように些細なことで二人が喧嘩をしたとき、小さなはキルヒアイスに「大嫌い」と叫んだことがあった。 結局、仲睦まじい兄と妹は喧嘩も長続きせず、あっさりと仲直りをしたのだが、その時にキルヒアイスが苦笑を浮かべて「大嫌いは、キツイな」と漏らしたのを、は聞き逃さなかったのだ。 以来、不可抗力や悪意のない嘘など、「ジークが悪く無いのは分かるけど、でも腹が立つのよ!」というときには、は「大嫌い」の代わりに「大好き」と叫ぶようになってしまったという。 理由を聞いたミュラーはなんとも言い難い表情で笑いを堪えた揚句、「それはらしいですね」と、非個性的な返答で応じる。 キルヒアイスとしては、の怒りのバロメータくらいに捕らえているのだろう。 「さて、それでは謝ってくることにします。」 キルヒアイスが苦笑とともに、一つ呼吸を落とし、ミュラーに軽く会釈をすると、ミュラーも同じように返してその時背中を見送った。 |
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