あの扉の向こうに確かに少年はいたのに、どうして今はどこにもいないの? 彼は私に向かって、ひらひらと手を振っていたのに。 「ねぇ、ヘブラスカ。あの子はどこにいったの?あの子はどうなったの?」 何度訊ねても、ヘブラスカは答えない。 「ヘブラスカ。あの人たちは、あの子に何をしたの?」 「……。」 「あの人たちは、私に何をするの?」 3年ぶりに兄に再会し、ようやく生ける屍から人間らしく見えるまでに回復したリナリーは、蒼白な顔で問う。 黙秘権を行使しているイノセンスの番人は、身を縮めて涙を堪えている少女の髪に、つっと体の一部を絡めた。 それはさながら、慰めるような動作。 「安心しろ、リナリー・リー。適合者であれば、何も問題は起きない。」 遠まわしに答えられた言葉。 しかし、リナリーは年齢にしては利発すぎた。 「じゃあ、あの子はどんな問題があったの?何が、起きたの?」 絶望的な声が、ヘブラスカを責めていた。 まだ、10歳にも満たない少女に、ヘブラスカは無情に告げる。 「咎落ち。」 言葉の意味を、リナリーが理解したとは思わなかった。 少女は言葉ではなく、本能でその意味を悟り、絶望的な表情を両手で覆った。 声も無く泣き崩れる少女に、ヘブラスカはなおも沈黙を通す。 「コムイ…お兄ちゃん……」 たった独り放り込まれた絶望の中から、唯一の救いを求めるようにして、リナリーはたった一人の兄を呼ぶ。 しばらく微動だにしなかったリナリーは、不意にゆるりと両手を離した顔の中で、その黒い瞳の焦点は中に浮遊したまま定められなかった。 「お兄ちゃん……」 ゆらりと動き出した体は、まるで目的のみを設定されたオートドールのような足取りで動き出す。 「リナリー」 ヘブラスカは少女の名前を呼んだが、リナリーの耳には届かなかった。 ぺたりぺたりと、リナリーは酷く緩慢な足取りで石造りの冷たい廊下を進む。 ずるりずるりと、そのたびに長い服の裾が床に引き摺られていく。 時折除く小さな足は、冷たさに紅くなっていた。 夜も更けた時間、冷たく暗い通路に蝋燭の明かりだけが静かに揺れている。 まるで夢遊病者のようにそこまで辿り着くと、リナリーはどんっと拳で目の前の扉を叩いた。 古い扉は幼い子供の力でも、容易に悲鳴を上げる。 「お兄ちゃん」 兄の名前を呼び、もう一度扉を叩く。 しかし、部屋の中からはなんの反応も返ってこない。 「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」 次第に眼が覚めていくように声が大きくなり、扉を叩く回数も増えていく。 どんなに必死に呼んでも、答える声は無い。 独り黒の教団に連れてこられ、たった一人の兄と引き離されていた記憶も新しいリナリーは、ある一点を過ぎたところで、ふつりと糸が切れたように叫ぶのを止め、扉を叩くことさえも諦めた。 「コムイ…お兄ちゃん……」 ずるりと、扉に縋る様に崩れ落ち、冷たい床に膝を付く。 自分の意思とはかけ離れた場所で、涙を流せと指令が下った。 また、自我の殻に飲み込まれそうになるリナリーの耳に、不意に低い声が響いた。 「リナリー?」 焦点の合わない視線を向ければ、その先には見慣れた顔がある。 「やっぱりリナリーじゃないか。何してんだ、こんなところで。」 声の相手は、コムイ・リーとほぼ同期に黒の教団本部に入ったリーバー・ウェンハムだった。 リナリーとちょうど一回り歳の離れた科学班員は、睡眠不足と無精髭という疲れきった顔に苦笑を浮かべていた。 「どうした?また魘されたのか?」 床に崩れ落ちた少女を軽々と抱き上げ、リーバーは軽くその背を叩いてやった。 縋り付いたリナリーは、引き戻された現実の空気の冷たさに、身震いをして問いかける。 「お兄ちゃんは?」 消え入りそうな少女の声に、リーバーは特別気を使う様子も無く、リナリーを抱えあげたまま、その二つ先の自分の部屋に入る。 「科学班室にいる。最近上といろいろ遣り合ってるから、あそこに詰められっぱなしなんだよ。」 リーバーの言葉に、リナリーはようやく顔を上げた。 また、独りだけこの暗い世界に閉ざされてしまったのかと思った。 自分の服を掴む手が震えていることに気が付いて、リーバーは一つ呼吸をおいてから、壊れ物を扱うようにリナリーの髪に触れた。 「リナリー、俺もすぐ戻らなきゃなんねぇんだ。お前はどうする?」 リーバーは選択肢を出さない。 それはリナリーの意思の尊重であったが、長く拘束されて己の意思を摘み取られてきたリナリーにとっては、いささか苦しい言葉だった。 独りになりたくない。 だけど、連れて行ってとも、一緒にいてとも言えない。 無意識にリーバーの服を掴む手に力がこもり、彼は思わず苦笑を浮かべた。 彼が敬愛する科学班班長のコムイが、彼女を溺愛する理由が少しだけ分かるような気がした。 「まぁ、研究室にもお前一人眠れるくらいのソファーはあるだろ。」 あそこは騒がしいから、よく眠れるとは思えないけどな。 そうぼやいて、リーバーはリナリーを片手に抱えなおすと、空いた片手で机の上の資料を掻き集め始める。 リーバーの首にしがみついたままで、リナリーが呻くように呟く。 「――あの扉の向こう…何してるの……?」 ぴくりと、リーバーの手が止まる。 「――ヘブラスカは教えてくれなかったわ。ねぇ、咎落ちって、何?あの子はどうなったの?」 少女のか細い声が、刃物よりも鋭くリーバーの耳を抉った。 リーバーは機械的に手を動かし、資料の束を抱える。 何も答えようとしないリーバーに、リナリーはそれ以上問いかけなかった。 部屋を出て、長く暗い廊下をゆっくりと進む。 「――知ってたのか?」 不意にリーバーが口を開き、リナリーはわずかに頷いた。 「私も、きっと咎落ちで死んじゃうんだわ。」 幼い声は靴音をうまく弾いて、リーバーの声に届いた。 「あの子は、悪くなかったのに。罪や咎があるのは、私たちの方なんでしょう?」 「お前も、悪くないよ。リナリー。」 リーバーがさえぎると、リナリーはようやく顔を上げる。 「本当に?」 「ああ。」 「私はあの子を見捨てて、あの扉を閉めたのに?」 「ああ。」 また泣き出しそうな顔に、笑いかける。 「お前の兄貴がそれを証明してくれる。今に俺たちがあの扉をぶっ壊してやるから、何も心配するな、リナリー。」 「――うん……。」 まだ不安そうに頷く少女。 リナリーは再び縋るようにリーバーの首に顔を埋めた。 両手が塞がっているせいで、頭を撫でてやれないことが、少しだけ残念に思えた。 |
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