「ティッキー!」 何やら楽しそうな声に、名前を呼ばれた青年の背筋に悪寒が走った。 自分が持てる限りの反射神経を駆使して、素早く振り返ったつもりだったが、声の主がティキの背に飛びつくほうがいくらか早かった。 「ロード!何しやがる!」 うんざりと、反動でよろめく体制を整えながら苦情を言ったが、その声はロードの楽しそうな声に半ばかき消されてしまった。 「えいっ!」 背後から首に抱きついたロードは、兄の体に足を絡めて安定を図ると、酷く楽しそうに景気付けの声を出しながら、左手でティキのあごを掴んで上を向かせ、無防備になったその咽喉に右手で持っていたナイフを一閃させた。 「うおっ!」 首を掻き切られたにしてはいささか間抜けな声を出して、ティキはよろめきながら咽喉元を押さえる。 「ロード…!おまっ…!」 動脈を掻き切られたせいで吹き上がる鮮血が、彼の白い手袋を真っ赤に染める。 ロードはティキの体に絡めていた足を解き、反動を付けて離れると、軽やかに床に着地した。 ティキの体はそのわずかな反動にすら抗えずに、床に崩れ落ちる。 「お前…何を…」 床に伏した状態で見上げれば、少女は無機質な瞳でティキを見つめながら、刃物に付着している血液を舐め取っていた。 「やっぱり良く解からないなぁ…。」 つっとナイフの刃をなぞれば、音もなく皮膚が裂けて玉のような血液が流れ出す。 しかしロードが一口それを舐めれば、傷跡は一瞬にして跡形もなく消えてなくなっていた。 「ねぇ、ティッキー。何時まで転がってるの?」 たった今、自分で切りつけた相手に向かって、少女はのんきに声をかける。 咽喉を切られた青年はむくりと起き上がると、呆れたようにぼやいた。 「お前な、俺が迫真の演技でもって乗ってやったんだから、何か突っ込めよ。」 もちろん、青年の首にも傷は残っていない。 あるのは体から逃げ出した鮮血ばかりだ。 そしてそれが、安っぽい手妻ではないことを語っている。 「ごめんねぇ。でも今日はそーゆーことをしたいんじゃないんだよ。」 からからと笑いながら、ロードは床に胡坐を掻いたティキに向かって、再びナイフを突き出す。 確かな手ごたえと共に、ティキの腹にナイフが埋まった。 「おい。」 不意打ちに驚いた様子もなくティキがぼやけば、ロードはそれを完全に無視して呟く。 「もうちょっとかな?」 その体に凭れ掛かるようにして、全体重をかけてナイフをその体に押し込み、さらにそれを回転させて、兄の体内を内臓ごと掻き回す。 ぐちゃぐちゃと鳴る水音が、耳に不愉快な響きを残した。 「ロード。」 「ん〜?」 上の空で答え、手を止めようとしないロードに、ティキはようやくその細い肩を掴んで自分の体から離した。 「いい加減にしないと、さすがにお兄さんも怒っちゃうよ?」 腹にナイフを埋め込んだまま、ティキは引きつった笑みを向ける。 もちろん痛みでそんな表情をしているわけではない。 「え〜、ごめぇん。起こらないでぇ?」 対するロードも肩を掴まれたまま、白々しく笑って答えた。 微塵も反省の色がない妹に、兄は苦々しく肩をすくめて笑みを浮かべる。 「まったく、うちのお姫様は今度はどんな遊びを思いついたわけ?」 ロードを膝の上に乗せたまま腹の中のナイフを抜けば、ロードはそこから溢れる血液を掬い取って、凶悪に可愛らしく笑って見せる。 「どこまでヤったら、死ぬかと思って。」 無邪気な殺人鬼は笑顔のまま答え、掬い取ったティキの血で、彼の頬に一本の線を引いた。 「相変わらずいい根性してんよな、お前。」 皮肉を込めて笑えば、ロードはサラリとそれを受け流す。 「ありがとぉ〜」 「――褒めてねぇし。」 からりと音を立てて、ティキはナイフを冷たい床に落とす。 刃物を抜くと同時に再生を始めた体に、ロードは興味深気に魅入った。 「おいおいロード、ちょっと待て。」 だんだん前のめりになり、最後にはティキを床に押し倒す形で、馬乗りになる。 「エグいなぁ。」 「なら見るなよ。」 収縮を繰り返し、再生を図る腹部を見つめながら呟けば、一方的に実験に付き合わされたティキは冷ややかに答える。 不意にロードが、消えかけた傷口に指を突っ込んだ。 予測不可能な行動に、ティキは眉を顰める。 「ねぇ、痛い?」 無遠慮に動かされる指は確かに不快ではあるが、長さがそれほどないせいかそこまで痛みは感じない。 「いや…別に?」 正直に答えれば、妹はつまらなさそうに指を抜く。 「え〜、つまんなぁい!ティッキーはどうしたら痛いのぉ?」 「そんなもん知るか。だいたいお前な、そーゆー実験は自分の体でやれ!」 「そんなことしてたらただのマゾじゃんか。」 不毛で短い言い争いの末、先に行動に出たのはティキの方だった。 床に転がったナイフを逆手に掴み、一閃させる。 「あ。」 間抜けな声と鮮血に混じって、ぼとりと落ちたのは、先程までティキの腹を抉っていた右手だった。 「酷ぉい。」 痛がる様子もなく棒読みで苦情を言っておいて、ロードは切り落とされた自分の右手を残った左手で掴みあげる。 「手癖の悪い手はいりません。お仕置きです。」 ロードに馬乗りにされたまま、ティキはにやりと笑う。 「拷問が得意なのはお前だけじゃないんだよ。」 「ティッキーのサドー!」 非常識な会話を続けながら、ロードは落とされた腕を切り口に近づける。 すると細い腕の筋や神経が切り落とされた腕に絡みつき、見る間に腕が元に戻っていく。 「我が妹ながら、天晴れな化け物っぷりだよなぁ。」 しみじみと、だけど心から賞賛の言葉を贈ってやれば、ロードは腕の具合を確かめるように、握ったり開いたりしながら応じる。 「ティッキーがそれを言う?」 「まぁ、俺らヒトの枠から抜け出した存在ですからねぇ。」 のほほんと言いながら、ティキはナイフを持ち替えてロードの首に添えた。 「ここを切り落としても、切り口に近づければ繋がるのかね?」 「繋がるんじゃないのぉ?」 「じゃあ、離したままにしといたら?」 ぴたぴたとナイフをロードの頬に押し当てれば、彼女は気にする様子もなく可愛らしく考え込む。 「新しいのが生えてくるんじゃないの?」 突拍子もないことを大真面目に言えば、ティキはナイフを添えたまま、ぶっと吹き出す。 その拍子に少しだけロードの頬をナイフが抉ったが、数瞬後にはやはり傷は跡形もなく消え去ってしまった。 「今、すっげぇ嫌な想像したんだけどさぁ、それって体から頭が生えてくんの?それとも頭から体が生えてくんの?」 言葉にするのも憚れると言わんばかりに酷くげんなりした様子で兄がぼやけば、ロードはその上で腹を抱えて笑い転げる。 「両方から生えてくるかもよぉ?」 兄が想像したことを的確に言ってやれば、ティキは慌ててナイフを引っ込める。 「やっっぱり?俺ロードが二人もいたら神経性胃炎で倒れちゃうね!」 ティキはまったくの真剣だったが、ロードはさらに品の欠片も無く兄の上で笑い転げる。 「こーら、笑うな。俺にとっては切実な問題なんだよ。」 言いながらロードの額を弾くと、ロードはようやく笑いを収めた。 「どっちにしても、切ったくらいじゃ死なないだろうねぇ。」 悪戯っ子は挑発的に舌なめずりをする。 ティキは苦笑すると、薄笑いに表情を変えてロードを見やった。 「我が親愛なる妹君。」 「何?」 わざとらしく呼べば、ロードはすぐにその新しい遊びに乗ってくる。 「じゃあこれならどうよ?」 言うなりティキは、ずぶりとロードの体内に手を差し入れた。 まるで、自分の胸の間から兄の手が生えているような光景に、またもロードは緊張感の欠片も無く笑う。 「うわぁ、ティッキーのえっち〜!」 もっと他に言うことは無いのかと思うような言葉に、ティキはつまらなさそうに妹を見やる。 「何か他に反応は無いわけ?『痛い』とか『やめて』とか、ちょっとは可愛らしく泣き叫んでみるとか。」 「え〜?そーゆープレイは普通の人間に頼みなよぉ。」 きゃらきゃらと笑うロードのナカで、ティキは遠慮無く中身を撫で回す。 内臓を直接触られる感覚に、さすがにロードが顔を顰めた。 「ティッキー、これってセクハラじゃないの?」 「ガキ相手に盛るかよ。」 さすがにむっとしたのか、ロードはティキをに睨むと、ティキはにやりと笑って手を体の中から抜いた。 その手に視線を定めれば、びくびくと蠢く臓器が握られている。 ティキの人の悪い笑顔を見てから、ロードはとりあえず自分の胸や腹を弄って、何も違和感が無いことを確かめてから問いかける。 「何を持ってったの?」 「心臓。」 にっこりと嫌味な笑みを浮かべるティキに、ロードはごく自然に思ったことを口にしてみた。 「どーすんの、ソレ?」 自分の心臓を持っていかれたというのに、あまりといえばあまりな台詞だ。 ことごとく自分の想像範囲外の反応を見せられたティキは、面白くなさそうに剥れてみせる。 「お前さぁ、せめてもうちょっと慌てるべきじゃねぇ?いくらノアとはいえ、心臓持っていかれたんだぜ?」 「え〜、でも、死んでないし?」 ロードはそれでも気の抜けたような声を出し、少し考えてから表情を変えた。 「お願いティッキー!僕の心臓を盗らないで!」 「棒読みで言われても楽しくないね。」 サラリと交わしておいて、ティキは無造作にその心臓ごと持ち主の体に手を突っ込んだ。 「うわぁ、気持ち悪…。それ以上掻き回したら吐いてやるからねぇ。」 体の中に手を突っ込まれながら、ロードは射程距離と言わんばかりにティキの首に腕を絡める。 「そんなことしたら泣いてやるからな。」 至近距離に迫ったロードに嫌な顔をしてやれば、妹はげらげらと笑う。 心臓を元に戻して手を抜いても、ロードはティキから離れようとしなかった。 「まだ何か?お姫様。」 子供をなだめるように言えば、ロードはにやりと笑って問いかける。 「僕らが死ぬ日って来ると思う?」 「さぁねぇ。俺らはヒトであってヒトでないし。」 「そうだねぇ。ティッキーのヒトデナシ。」 「それはお前だ。」 どうにも振り回されながらも言い返してくるティキに、ロードは笑いながら凭れ掛かる。 「ロード?」 心配して自分の肩に顔を埋めた妹の顔を覗き込もうとした瞬間。 「関心シマせんネ。兄妹同士でソレはヒトの道に外レますヨ。」 もう聞きなれた、少し金属質な声がかかる。 今までの会話の流れを知ってか知らずか、伯爵の言葉に、二人は思わず笑みを浮かべた。 「千年公。」 突如現れた家族の一人に、ロードとティキは驚いた様子も無く二人して間抜けな声を上げる。 「とりアえずロード、貴方ティキの上カラどきなサイ。」 はぁい、っと素直に返しておいて、ロードはようやくティキの上から離れた。 続いてティキが立ち上がれば、二人して座り込んでいた場所に血溜まりが出来ている。 「うわぁ、ホラーだな、こりゃ。」 血塗れの手袋を外してその血溜まりに放り投げれば、びしゃりと紅い液体が撥ねた。 「貴方たち、何をシテいたんデスか?」 小首を傾げる伯爵に、ロードが眼を細めて答える。 「イケナイ事」 「おいおいおいおい。」 とりあえず突っ込んでおいたが、ティキはそれ以上は苦笑を浮かべただけだった。 分かったような分からないような表情で、伯爵はくるりと二人に背を向ける。 「まぁ、何でもイイですけどネ。これから忙しくナリますカラ、油なんて売ッテないで下サイよ?」 すたすたと歩き出す伯爵の背中を見ながら、ロードとティキが一瞬視線を合わせる。 にやりと笑って、ロードは伯爵の背を追いかけて歩き出し、ティキは一瞬遅れてから、床に転がったシルクハットを拾い上げながら呟いた。 「はいはい。千年公の仰せのままに。」 |
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