いつもなら、確実に素通りしていただろう。 今日だって素通りすることは簡単だったが、アレンのどうにもヤバイ泣き方が、神田の足首を強引に掴み、進む方向を変えたのだ。 「何してやがる、モヤシ。」 そのまま見つけなければ、任務明けの疲れた体を自分の部屋で十分に休めることも出来たのに、それが出来なくなって思わず舌打ちが零れる。 その不機嫌さを隠そうともせずに、神田はアレンの髪を引っつかんだ。 洗面台に首を突っ込み、冷水を惜しみなく垂れ流していた蛇口にがつりと痛そうな音がなったが、そんなことまでは気にしない。 げほりと苦しそうな咳と共に、びしょ濡れになった頭が洗面台から離された。 勢い良く流れ出ている水をそのままに、神田はそのままアレンを壁に叩き付ける。 鈍い、呼吸が詰まるような間隔に、アレンはもう一度浅く咳き込み、そのままずるずると座り込んでしまった。 それを、無感動の視線で一瞥してから、神田は蛇口を捻り、この時期には冷たすぎる水を止める。 いつもなら、自分に食って掛かってくるアレンが力なく冷たい床に座り込んでしまったため、頭ごなしに怒鳴ることも憚られて、行き場を失った怒りを少しでも発散すべく、わざと乱暴な動作が続く。 この真冬に、タオルも用意せず頭から水をかぶるなど、正気の沙汰とも思えない。 現にアレンの肩は小刻みに震えているが、しかしそれは寒さだけではないのだろう。 更に、俯いた顔の両手で覆った口元から、押し込めるような嗚咽が漏れているのに気付いてしまったから、神田は文句を飲み込むハメになってしまった。 とにかく、怒鳴るのは落ち着いてからでも十分間に合う。 「何してやがる。」 もう一度同じことを、同じように不機嫌な顔で言えば、アレンは重々しく顔を上げた。 びしょ濡れの顔に滴る水分は、おそらく水道水だけではないだろう。 アレンは酷く絶望したような顔で、神田の言葉に答えるでもなく、自分の行為を止めに入った相手を見上げている。 少し驚いたような色が浮かんだのは、その相手が意外と言えば意外だったからだろう。 自分の苛立ちを掻き立ててやまないエクソシストの腕を引っつかみ、神田は明瞭簡潔に一言放った。 「立て。」 同時に、半ば腕力にモノを言わせて立ち上がらせると、神田はつかつかと歩き出す。 「テメェの部屋は何処だ?」 普段なら突っかかってくる相手が、今日は従順についてくることに、少しだけ違和感を覚えながら、それでも振り返るなどという面倒なことはしない。 「何処だって聞いてんだよ。」 いつだったか、「呪われた相手と握手なんかするかよ」と言われていたのに、意識してかしていないでか、イノセンスが埋め込まれたほうの手を無造作につかまれたアレンは、空いているほうの手で涙を拭いながら呟くように答えた。 「――部屋は…コムリンに壊されてて……」 まだ直っていないと言い切る前に、神田は急に足を止めて勢い良く振り返る。 その嫌そうな顔といったらない。 「あの…そのまま任務に出てて……僕も帰って来たばかりで……」 「コムイの野郎……ぶっ殺す。」 アレンが気圧されたように言い訳がましく続ければ、神田はポツリと呟いてから再びアレンの腕を掴んだまま歩き出した。 最初、神田はアレンを部彼の屋に連れて行くつもりだったのだろう。 それが、アレンの部屋が無いと分かった以上、何処へ連れて行こうというのか。 「部屋も無いのにそのままでいるつもりか?」 アレンの思考を読み取ったかのような言葉を吐き、神田は眉間に皺を寄せたまま薄暗い廊下を突っ切っていく。 「お前は黙って付いて来い。」 「――はい……。」 どうすべきか。 神田は考える。 というより、此処まで来ると他に選択肢など無いのだが、他人を部屋に入れることには抵抗がある。 だが、拾った以上また捨てるわけにも行かない。 妙なところで律儀な神田は、結局そのままアレンを自室へと連れ込んだ。 そのまま部屋を突っ切って、シャワールームに押し込む。 突き飛ばすような乱暴さで背中を押されたアレンは、バランスを崩して冷たいタイルの上に膝をつく。 それを見下ろすように睨み付けて、神田は言った。 「濡れ鼠のままでいたく無ければ、シャワーを浴びるまで出てくるな。」 そしてアレンの返答を待たずに扉を閉める。 しばらくあっけに取られてそのままタイルの上に座り込んでいたアレンは、影をも消え去った扉を見つめたまま、ぼんやり考える。 自分だって、任務明けで血塗れで誇り塗れのくせに。 のろのろと立ち上がり、のろのろと団服のボタンを外し始める。 ユニットバスのカーテンを引いて蛇口を捻ると、冷え切った体には熱すぎるお湯がシャワーから溢れた。 ばさりと音を立てて脱いだ団服を、神田は無造作にベッドに放った。 そのまま、ところどころに返り血にはねているシャツのボタンだけ外し、ベッドの縁に腰掛けるとそのまま仰向けに倒れこむ。 全く、いらねぇモン拾ったもんだ。 十分に返り血を吸って重くなった団服を脱ぎ捨てても、疲れた体は軽くは感じなかった。 肺を空にするようにに深く息を吐き出せば、その分だけ体が深く沈みこむような気さえする。 サーっと、薄い壁の向こうから浴室を叩く水音が聞こえ、のろりと視線だけそちらに向けてみた。 もう一度静かに、ゆるりと酸素を貪りながら天井を仰ぐ。 煌々と光るライトが煩わしくて、重い瞼を閉じた。 あれは、まだ慣れてないんだろうな。 あまり良くない泣き方をしていた子供の顔を思い出す。 自分はもうエクソシストとしての経歴が長いから、悲鳴にも返り血にも、サポーターやファインダー、巻き込まれた人間が死んでしまうことにも慣れてしまった。 そして、そんな自分が周りから非情だの冷酷だの言われることにもだ。 最初の頃は己の無力を嘆いたこともあったが、次第にそんなことにいちいち落ち込んでいては身動きが取れなくなってしまうことを悟った。 それこそ、任務を重ねていくうちに、自然と折り合いのつけ方を覚えていったのだ。 此処はそれだけ生命の消耗が激しい所なのだからと。 目を閉じたまま、何度目かの息を吐く。 また体が沈んだような気がした。 目を閉じていても、瞼の向こうで輝くライトは明るい。 それが不意に遮られて、反射的に目を開く前に神田の鼓膜を少し高い声が叩いた。 「あの、神田?」 声の主は自分が連れ込んだ少年なのだから、もちろん驚くべき理由などない。 問題は、その相手が寝転がった自分の顔を覗き込むように近づけていたこと、そして、そんな近距離に他人がやってくるまで、自分が気付かなかったことだった。 目を開いた神田がアレンの姿を確認し、目を見開いてから眉間に皺が寄るまで、一瞬とかからなかった。 そして、アレンが何か言おうとすると同時に、神田の上半身が跳ね上がる。 当然ながら一瞬後には、鈍器と鈍器を叩き鳴らしたような不協和音が部屋中に響いた。 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」 「―――――――――っ!!」 二人分の声にならない声が続き、アレンと神田は図ったように同じ行動を取った。 すなわち、額を押さえ込んで蹲ったのである。 半ば吹っ飛ばされるようにしてのけぞったアレンはベッドの脇へ、勢いに任せて状態を起してしまった神田は、ベッドに腰掛けた足をそのままに上体だけ丸め込むように。 視界に飛び散った星が治まってから、神田が視線を向けると、アレンはまだまだ額を抑えたまま、指の隙間から涙が浮かぶ目で神田を見上げて呟いた。 「――急に起き上がらないで下さい。」 「うるせぇ!お前こそ気配消して近寄って来るんじゃねぇよ!」 「僕は気配なんて消してません!」 苦情を言って、怒鳴り返されたので、ムキになって更に怒鳴り返せば、大声によって治まっていた痛みが思い出したかのように脳内でドラを鳴らせた。 反射的に二人して額を抑えれば、自然と怒鳴り声もやむ。 一つ溜息をついて神田は無言で立ち上がり、アレンの背後にまわると、クローゼットから汚れていないシャツを取り出しはじめた。 いい加減、シャワーでも浴びたいんだろうな、と、アレンは額を抑えながら黙り込む。 手はほとんど無意識にぶつけた場所をさすってはいたが、無言になるとどうしてもさっきまでの自分が戻ってきてしまいそうだった。 アレンは神田に見られないように顔を俯かせ、歯を食いしばった。 こんなことなら、怒鳴り合っているほうがまだマシだ。 こんな弱気になっている姿をよりにもよって神田に見られた挙句、先ほどのように怒鳴られたり、ありえないと思いながらも慰められるならまだしも、何も言ってこないんて気まずい事この上ない。 自分はまだ、何かあればオートで涙が出てきてしまうのに。 ぐすりと鼻をすすったアレンを肩越しに見ていた神田は、アレンの気持ちを察してか察しないでか、低い声で呟いた。 「じきに慣れる。」 強くも弱くもない声に、アレンは僅かに顔を上げる。 涙が浮かぶ目で、アレンも肩越しに神田を睨み上げ、引き攣ったような笑みを浮かべて聞き返す。 「それは、殺すことにですか?殺されることにですか?それとも、死んで行くことにですか?」 神田の冷酷さを揶揄した皮肉を含ませていたようだが、神田はそれを軽く笑い飛ばして即答した。 口元を吊り上げて出された返事は一言。 「全部にだ。」 自嘲の笑みを浮かべていたアレンは、唇を噛んで答える。 「――そんなことに慣れたくありません。」 「ならそうやっていつまでも苦しむんだな。」 自分を連れ込んでおいて、どこまでも突き放してくる神田に、アレンは悔しそうに睨み返すしか出来ない。 残念ながら、エクソシストとしては遥かに経験で劣ることはまごうこと無き事実なのだ。 それでも、聞き訳がない子供の言葉だと自覚しつつ、アレンは言い返す。 「そんなの、イヤです。」 次に神田が何と言ってきても、絶対に泣かないと言わんばかりに、アレンはきつく奥歯を噛む。 案の定、神田は馬鹿にしたような笑みを口元に向け、クローゼットを閉めると、アレンの胸倉を掴んで強引に顔を引き寄せた。 「一つだけ、苦しまなくて済む方法があるぜ。」 先ほど、アレンが覗き込んだときより更に近い距離で、神田の低い声があざ笑うかのようにアレンの鼓膜を叩く。 「イノセンスも、黒の教団も、アクマも千年伯爵もすべて忘れて何も知らない人間の中に戻ることだ。そうすれば、楽になれる。どこで誰がどんな風に死んでいくかなんて、知りようもなくなるんだからな。」 くっと、咽喉の奥で笑って、神田は強引に引っ張って腰の浮いたアレンを、再び床に叩きつけるようにその胸倉から手を離す。 「コムイなら記憶操作くらいやってくれるだろ。」 まぁ、お前には出来ないだろうがな、とは、言わなかった。 声に出しては。 しかしそのアレンをあざ笑うような笑みは、完全にそう告げている。 げほりと咳を一つして、呼吸を整えてから、アレンはベッドにかけられたシーツを握りながら、神田が笑う通りのことを言う。 「僕は、逃げません。」 「なら、諦めるんだな。自分の為に他人が死んでいくことを。」 神田は、厳密にはアレンに何があったかなど知らないはずなのに、それでも会話が成立してしまうのは、少なからず同じ事を体験してきたからだろう。 だが、アレンはそのことに気付かなかった。 「でも、僕の為に死んでいい人なんていません。」 急に気が弱くなったのか、アレンの声は自信無さ気に威勢のよさが消えていく。 どうして自分の為に死んでいくのか、どうして自分はそれを止められなかったのか、アレンは今でも悔やんでいる。 僅かに気が緩んだ瞬間に、瞳に溜まった涙が零れ落ちて、アレンは慌てて目元を拭った。 アレンを苛めるのにも飽きたのか、神田は呆れたように溜息を吐いた。 無造作にシャツのボタンを外しながら、続ける。 「サポーターやファインダーが何故エクソシストのために死んでいくか分かるか?」 答えを求めない問い掛けに、アレンはひくりと咽喉を上下しながら神田を見上げる。 「大量殺人をするアクマを破壊することが出来るイノセンスを、エクソシストが持っているからだよ。戦う術を持たない自分達が生き残るより、戦力としてエクソシストが生き残るほうが戦争での効率がいいから、奴らは俺たちの前に飛び出すんだ。」 血生臭いシャツを、半分泣いている子供投げつける。 一瞬、その血のにおいに怯んだアレンは眉をしかめたが、神田は構わず髪を解きにかかる。 「奴らは奴らの意思で俺たちの前に飛び出すんだ。だから俺たちは奴らの意思のために戦うんだろうが。今アクマと戦えるのは、エクソシストしかいないんだからな。」 新しいシャツを肩に引っ掛けて、神田は横目でアレンに一瞥くれると、そのまま無言で浴室に向かった。 アレンは黙ったままそれを聞いていたが、俯いてシーツを握り締めたまま、それでもかすれるような声で答えた。 「そんなこと、分かってます。分かってるから、嫌なんですよ。」 神田は口元を吊り上げてふっと笑いながら、何も言わずに浴室のドアを開け、音も立てずにそれを閉めた。 さっさと服を脱ぎ捨てて、シャワーの蛇口を捻れば、熱いお湯が出てくる。 一瞬壁の向こうで嗚咽が聞こえたような気がしたが、すぐにシャワーの音にかき消されていった 。 |
(C) 2005-2009 Replica Fantasy 月城憂. Some Rights Reserved.