本を広げていたが、熱心に読んでいるわけではなかった。 ただ、眠れなかったから。 ぼんやりベッドに転がって、狭い部屋の天井を見ているのにも飽きたから。 だからその辺に放置されていた一冊を手にとって部屋を出て来たに過ぎない。 今では読むことも書くことも、話すことさえ苦ではなくなった異国の文字の羅列を、何気なく目で追っていれば、嫌でも眠くなるだろうと思っていた。 談話室までわざわざやってきた理由も、たいしたことではなかった。 ただ、与えられた部屋よりも広い此処なら、呼吸も少しは楽になるということを知っていたからだ。 他人と馴れ合うのはまっぴらだったが、この時間なら余程の物好き以外はいないだろうと思ったのも、理由の一つである。 事実、ただっ広い談話室には、エクソシストはおろか、ファインダーや各班に所属しているものたちの姿もない。 まだ十代も半ばの少年は、長い髪を束ねる紐を無造作に解き、同じく長い足をソファーの上で組みなおした。 その瞬間、どさりと重量が沈み込む音を聞き、本のページをめくろうとしていたその手のまま、反射的に顔を上げた。 テーブルを挟んだ向かい側のソファーには、納まりの悪い赤毛を無造作にバンダナで整えた少年がソファーに沈み込んでいる。 「疲れたさ〜、眠いさ〜、やっと帰ってきたのに、神田しか起きてないってどういうことさ〜。」 今の時間を考えれば、無理もない言い草だったが、少年はお構い無しにうつ伏せに倒れた込んだまま、顔だけ神田のほうに向けた盛大に嘆いている。 唐突に自分の好む沈黙を破られた神田は、不快も露わに音を立てて本を閉じると、冷ややかな視線を持って独特な口調の少年を見やった。 「疲れてんならさっさと自分の部屋へ行け。だいたい、これだけソファーがあんのにわざわざ俺の相席を選ぶな、ジュニア。」 ジュニアと呼ばれた少年は声を立てずに笑うと、居住まいを正して神田に向き直った。 「俺さ、パンダじじぃと日本に行って来たんさ。」 ジュニアの言葉に、ぴくりと神田が反応する。 だが、彼は何事もなかったかのように本をテーブルに置くと、至って素っ気なく問い返した。 「それで?」 ある程度その反応を予想していたのか、赤毛の少年は笑って答える。 「色々勉強したんさぁ。ひらがなだろ、カタカナだろ、漢字に、文化やら風習やら…」 指折り数えるジュニアに、神田は苛立った様子を見せる。 彼は物事を単刀直入に言うのが常であったし、回りくどいやり方を好まない。 釣り上がった目線だけで先を促す黒髪の少年に、赤毛の少年は苦笑を浮かべて続けた。 「そこで始めて知ったんさ。『神田』って、ファーストネームじゃないのな?」 口調はとぼけているようでも、ジュニアの目はふざけている様子はない。 「それだけか?」 神田が呆れたように言えば、ジュニアはため息をついて返した。 「それだけって問題じゃないさ。名前は普通、ファーストネームで呼ぶもんだろ?俺こっちの文化が身についてるから、名前はファーストネーム・ファミリーネームの順で言うものだと思ってたさ!カルチャーショックってやつ?」 ジュニアは大真面目に言っている。 それでも笑ってしまうのは、きっと彼が自ら「知る」ことと「記憶」することを選んだためだろう。 何であろうと、新しいことを知るのは楽しいのかもしれない。 「だからこれからは神田じゃなくてユウって呼ぶさ。」 笑ってジュニアは言ったが、とたん、神田の眉間にしわがよったのは無理もない。 彼はこの名前を、人に呼ばれるのが好きではなかった。 ゆるりと立ち上がり、テーブルに足を乗せて少年の顔に近づく。 胸倉を掴んで引き寄せると、神田は低い声で唸るようにはき捨てた。 「黙れ、ジュニア。俺は、黒の教団に入ってから、誰にもその名前で呼ばせたことはないんだよ。」 しかし、ジュニアも黙っていない。 「ジュニアじゃないさ。俺の名前はラビさ。」 冷ややかな視線がぶつかる。 しかしそれは一瞬のことで、神田はすぐに胸倉から手を離し、何事もなかったかのように向かい側にソファーに戻った。 これ見よがしに向かい側のラビを無視するかのように、一度閉じた本をぱらぱらと捲る。 ラビは掴まれた胸元を正すように整え、ソファーの背凭れに体を預けながら天井を仰いだ。 「夕方の烏、自由な宇宙、優しい羽、憂鬱な雨。」 呪文のように呟く。 神田には一瞬その意味が分からなかった。 不機嫌なまま視線だけ上げれば、ラビは天井を仰いだまま続ける。 「夕烏、由宇、優羽、憂雨」 今ここに、己のイノセンスである六幻があったら、神田は間違いなくラビを切り捨てていただろう。 「てめぇ、殺されてぇのか?」 大の大人でさえ怯む恫喝に、ラビはにへらと笑っただけだった。 「ユウって、どんな字書くさ?ニホンの名前は漢字が主流って聞いたさ。」 教えて、と笑うラビに、神田は隠そうともせずに舌打ちをこぼした。 「お前には関係ねぇだろうが。」 殺気を叩きつけるように睨み付けても、相手はそれをかわす術を心得ている。 怯む様子も堪えた様子もなく、ラビは呪文のように呟いて、習ったばかりの漢字を虚空に並べた。 「優、憂、由、悠、友、遊、結……」 「黙れ。」 青筋を浮かべた神田が、手に持っていた本を容赦なく投げつける。 それはラビの体にまともに当たったが、たいした衝撃にはなっていなかった。 神田の怒りを故意に無視しているとしか思えない態度で、ラビは投げつけられた本を手にとってにっこりと笑う 「どんな字書くさ?」 噛み合わない会話に、神田は眉間にしわを寄せるばかりだ。 ラビはごく丁寧に投げつけられた本をテーブルに置いて、真正面から神田を見据えた。 「ひょっとして、自分には似合わない名前だって思ってるさ?」 ラビの口調はからかうでもなく、至極真面目な口調だったが、図星を指された神田は短く舌打ちで返してしまった。 結果、ラビの言っていることを認めた形になり、一方的な気まずさを抱えてしまう。 ラビは苦笑を浮かべて、その顔を覗き込む。 「別に、変じゃないと思うさ。子供に名前をつけるのは、親の特権さ。」 にっと笑って、ラビはしかめっ面を作り上げた。 「俺だってそうさ。ラビって、名前の意味は、うさちゃんさ。」 「――うさ…ちゃん……?」 一瞬話の流れについていけなくて、神田は拍子抜けしたように呟いた。 「そうさ。昔うさぎを飼ってたさ。オレンジ色で、ふわふわしてて、めちゃめちゃ可愛かったんさ。俺はちっさい頃は髪の毛がふわふわで、赤じゃなくてオレンジだったから、名前を捨ててブックマンのじじぃと修行に出るとき、改めて付けられた今の『ラビ』って名前は、そのうさちゃんにちなんでつけられたんさぁ。」 まるで冗談のような話である。 まだ訝しげな目で自分を見ている神田に、ラビは方を竦めて続けた。 「最初はバニー・ラビッツって付けられそうになったんさ。さすがに嫌だって泣き叫んだら、次はラビって言われたから、妥協したさ。」 「妥協すんなよ…」 脱力したように神田が言えば、ラビはからからと笑って言う。 「仕方ないさ。うっかりだだ捏ねたら、じゃあキティとパピーとラビと、好きな名前を選べって言われて、選択肢が無かったんさ。」 たしかに子猫ちゃんや子犬ちゃんと呼ばれるくらいなら、兎を選択するほかに道はないだろう。 「お前の第二の名付け親は相当小動物が好きだったんだな。」 呆れて物も言えないという口調だったが、ラビは笑っただけだった。 「だから、ユウだってぜんぜん変じゃないさ。」 不意に話の流れを戻されて、神田は再び冷ややかな視線を向ける。 「それでも、俺は、呼ばれたくねぇんだよ。」 なおも強情に言い張る同い年のエクソシストに、ラビはさすがにお手上げの意思を示した。 再びソファーの背凭れに体を預け、無心に天井を見やる。 「ユウ、俺さぁ…」 すかさず黒の視線が壮絶な勢いを持ってラビを射抜いたが、天井に視線をやったままのラビは気づかぬふりをして続けた。 「名前ってもっと大事なものだと思うんさ。」 ぽつぽつ紡がれる言葉は、考えて話しているような口調ではなく、思ったことをそのまま話しているだけのようだ。 「誰にも呼んでもらえないって、寂しくないか?」 反動を付けて首を起こし、神田に目をやれば、相手は何を言わんとしているのか理解しきれていない表情をこちらに向けている。 「あと何十年かしたら、誰も俺の名前を呼ばなくなるんさ。じじぃの跡を継いだら、俺はラビじゃなくて、ブックマンになるから、誰も俺の名前を呼ばなくなるんさ。」 それって、凄く寂しいことだと思うんさ。 ブックマンの跡継ぎになると決めた時点で、今までの自分はすべて抹消された。 名前も、戸籍も、すべてだ。 裏を語り継ぐ存在になるために、表の存在を跡形も無く消し去る。 自分で決めたことだったが、なんともやりきれない気持ちになったのは、無理も無い。 「だからせめて、ユウは俺のことラビって呼んでほしいさ。ジュニアも俺を示すものではあるけど、それは俺の名前じゃないからさ。」 『ラビ』という名前は、己を構成する大事な一部だと彼は言う。 だから同様に、相手に対しても相手を構成する大事な一部である『ユウ』という名前を呼ぼうとする。 神田にも、ラビが抱える信念は判ったような気がした。 沈黙している神田に、ラビはそれ以上何も言わなかった。 あとは相手が決めることだと判断したのかもしれない。 「おい、ラビ。」 不意に神田が向かいの少年に声をかけ、テーブルに置かれた本を手に取りながら立ち上がった。 「人前でユウなんて呼びやがったら、その場で叩っ斬ってやるからな。」 言うだけ言うと、神田はくるりと背を向けてさっさと歩き出してしまう。 一瞬あっけに取られたラビは、すぐに言葉の意味を理解して、苦笑した。 あんまり素直じゃない言い方に、うっかり余計な一言を投げかける。 「なぁ、ユウの漢字って、やっぱり優だろ?」 かくして、返答はすさまじい勢いで本と一緒に投げ返されてきた。 |
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