「あなた、だれ?」 初めてそう言われたのは、真っ白の雪の日でした。 小さいころだったから、良く憶えていないけれど、その日は珍しく両親の機嫌が良くて、一緒に買い物に連れて行ってもらったのです。 僕が憶えている限り、両親と買い物に行ったのはその一度きりで、最初で最後の出来事でした。 今はもう顔さえ思い出せない両親に関して、僕が憶えていることといえば、怒られたり叩かれたり、そんな記憶ばかりだけど、そのときだけはとても優しく笑いかけてくれたような気がします。 汽車に乗って、見たことも無い大きな街で降りて、綺麗な服を着た人たちと、大きな建物に、僕は圧倒されていました。 お店のものが、きらきら輝いていて、見たことも無いものばかりで、僕は夢中になっていました。 綺麗なものを見ていると、とても幸せな気分になって、いつの間にか僕はとんでもない思い違いをしていました。 「お父さんとお母さんも、本当は僕のことを、ちゃんと愛してくれていたんだ。」 顔に青あざをつけて、ぼろぼろの洗いざらしの服を着て、たった独りでガラスケースにへばりついている子供を、周りの大人たちはいったいどんな眼で見ていたでしょうね? 気が付けば僕のそばに、両親の姿はありませんでした。 急速に冷えていく頭の中で、僕は必死に彼らを呼びました。 だけどどこにも二人はいなくて、僕は外に飛び出したのです。 必死に走って、走って走って、初めて来た街の中を駆け戻りました。 どうして道が分かってのでしょうね? とにかく僕は、取り付かれたように泣きながら走って、家に帰り着いてしまったのです。 真っ暗な真夜中になっていて、何時間走ったかなんて全然分かりませんでした。 涙だって枯れてしまうくらい疲れきっていたので、そのとき何を思っていたかなんて、憶えてもいません。 でも、それで良かったのでしょうね。 呼び鈴を押して、開かれた扉の向こうに現れたひとは、僕の姿を見て言いました。 「あなた、だれ?」 泣き叫んで縋り付けばよかったのかもしれません。 そうすればまだ、可愛げがあったのかもしれません。 だけど僕は彼女の言葉を聞いて、解ってしまったから、だから言ってしまったのです。 「ごめんなさい。お家を間違えたみたいです。」 彼女はどんな顔をしていたのでしょうね? 僕は笑ってそう言ったんです。 「あなた、だれ?」 次にその言葉を聴いたのは、自分の口から言ったときでした。 僕はもう、二度と殴られることも蹴られることも無かったけれど、かわりに食べる術も帰る場所も失くして、裏路地で蹲っていました。 ひょっとしたら、両親が探しに来てくれないかと、心のどこかで思っていたのかもしれません。 何回太陽と月が入れ替わっても、相変わらず僕は裏路地に蹲っていて、寒さと、飢えと、淋しさと、その三つだけを両腕いっぱいに抱えて、早く死んでしまえばいいと思っていました。 その日はちょうど神様の使徒の生誕を祝うお祭りの日で、街中が輝いていて、なのに僕の周りだけは雪の色しかなくて、泣きたくても余分な水さえ体には残っていなくて。 この聖なる日に、薄汚い子供に眼をくれる人なんて一人もいなくて、通りを行く人たちはみんな足早に通り過ぎていきました。 「こんな日に、こんな所で、どうしたんだい?」 だから一人の大人が僕に話しかけてきたとき、思わず問い返したのです。 「あなた、だれ?」 僕のお母さんが、僕に言ったのと同じ言葉を。 僕はそんなに酷い格好をしていたのでしょうか? 相手は酷く心配そうな顔をして答えました。 「私はマナ・ウォーカー。君の名前は?」 僕は答えられませんでした。 だって、もう随分長い間、名前を呼んでもらった記憶が無かったから、僕は自分の名前を忘れてしまっていたのです。 「あなた、だれ?」 目の前に現れた奇妙な仮面の人にも、同じ事を聞いたような気がします。 黒ずくめの姿に、胸に描いていた十字架だけが、いつかマナと行った教会の十字架よりも綺麗だと思いました。 だけど、本当のところを言うと、そのときのことを僕はあまり憶えていないのです。 確かだといえることは、顔の左半分が酷く痛んでいたこと。 今までミトンを外したことが無かった左手に、酷い違和感を感じたこと。 瞼の裏に信じがたい悪夢が焼きついていたこと。 脳裏に反響している声が、僕の名前を呼んでいたこと。 そして、その日を境に、この世の総ての絶望感を映しているような、黒の世界が見えるようになったこと。 「エクソシストにならないか?」 僕の忌まわしい左手を取った二人目の大人は言いました。 人間のものではなくなった左眼に映ったその人は、どこかマナに似ているような気がしました。 だから僕は、その差し伸べられた大きな手に縋ったのです。 僕と同じ過ちを犯す者がいなくなるように。 マナのような哀しいアクマを救済するために。 エクソシストになることを選んだのです。 本当は、ただ苦しみから逃げ出したかっただけということも、これ以上独りでいることに耐えられなかっただけということも、僕の弱さを全部押し隠して。 エクソシストになるといえば、その人が僕を傍に置いてくれるだろうということを、僕は知っていました。 だけど貴方は、僕のそんな狡い弱さを総て見抜いていましたね。 それでも貴方は優しかったから、あの時僕に言ってくれたから、だから僕はその弱さを飲み込むことが出来たのです。 ずいぶん時間がかかってしまったけれど…… 「あなた、だれ?」 「俺はクロス・マリアン。お前を導いてやろう、アレン・ウォーカー」 |
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