足元の影に気が付いて、アレンは足を止めた。 いつもなら気付きもしないような、他愛も無いそれを、今日は素通りすることが出来ない。 少し考えてから視線を泳がせてみると、床からはゆうに15メートルは離れているであろう、吹き抜けの片隅に、ひっそりとした小窓を見つけた。 だけど、逆光にもなっているし、堅牢な石枠がせり出しているせいもあって、影の本体は見えない。 何度か影と窓の間で視線を往復させてから、アレンはようやく足を動かした。 急に動き出したせいで、頭の上に乗っかっていたティムキャンピーがバランスを崩して、ころりと転がり落ちる。 ひょいっとそれを拾い上げて、アレンは手の平の相棒に話しかけた。 「ティム、あれは何て鳥かな?鳴き声が聞きたいね。」 大人びて見える彼が年相応に笑いかけても、ゴーレムは声を返すことは無い。 それでも、微妙な雰囲気を読み取ることに慣れてきたアレンは、ティムキャンピーが自分の手の平から動こうとしない様子に、興味が無いのだと判断した。 別にそれを非難するでもなく、アレンは表情を苦笑に変えて話しかける。 「ティム。ティムは羽根を持っているのに、鳥と一緒に飛びたいとは思わないの?」 もちろん彼は、師から預かり受けたゴーレムが特にそう望んでいないことも分かっているし、いざそう思っていても、勝手にどこかへ行かれたら困ってしまう。 ティムキャンピーのほうでも、そんなアレンの考えなどお見通しと言わんばかりに、先ほどと同じ雰囲気を保ったまま、ぱたりと羽根を動かして、ぽすりと再びアレンの頭上に自分の場所を定めた。 もう一度歩き出して、しかしまた未練がましく窓を振り返る。 そしてもう一度、床に映った影を見て、呟いた。 「飛ばないね、ティム。」 ティムキャンピーは答えない。 「飛ばない……」 陽の光を受けて落ちる、鳥の影。 そのすらしとした嘴や背中の曲線は、微動だにしない。 鳥の影が動かないというだけで、何故こんなに哀しくなるのだろう? 窓辺から視線を離せないまま、その場に足を縫いとめてしまったアレンに、不意に声がかけられた。 同時に視界を塞がれる。 「だーれだ?」 こんなことをするエクソシストに、心当たりは一つしかない。 アレンは半分困ったように笑って、肩越しに振り返った。 「ラビ。」 見慣れた鮮やかな髪の色に、アレンの表情が緩む。 「こんなところで何してたんさ?」 問いかけられる言葉はのほほんとした空気を伴って、アレンを和ませる。 「鳥を見ていたんです。」 そのまま、背中から抱きしめられた体勢で、アレンは再度視線を窓に投げかけた。 「鳥?」 ラビは訝しげに問い返す。 アレンの視線を辿って窓に目をやったが、そこに鳥の姿は無い。 感じやすいアレンに気を使った言い方をしないでいいなら、ラビはその場所に生き物の気配を感じ取ることが出来なかった。 「ええ。あそこの窓にいるんですよ。姿は見えないけれど、ほら、影があるでしょう?」 そう言って指差された足元を見れば、確かに鳥の影らしきものが見える。 しかし、そのにこりと笑う顔に、ラビは何か危うさを感じずにはいられなかった。 「アレンは鳥が好きなんさ?」 子供はラビの言葉など耳に届かないほどに、熱心に窓を見つめている。 痛くなりそうなほどに首を上に向けたせいで、せっかく居場所を定めたゴーレムが再び転げ落ちた。 アレン・ウォーカーという子供が、幾分変わった存在であるということは、ラビにも十分分かっていたはずだった。 だけど、これでは、あまりに…… 自分の問いに答えようとしないアレンに、ラビはその体を抱きしめる腕に力を込める。 その腕に紅い左手が触れたのは、多分子供の無意識だっただろう。 少し前まで無邪気に窓を眺めていた子供は、今は憂える表情で、頭上から転げ落ちたゴーレムを探した。 「ティム……」 命令でもなければ、お願いでもない。 ただ、相棒の名前を読んだだけだ。 だが、名前を呼ばれたゴーレムは正確にアレンが求める意図を読み取った。 15メートルの高さまで登り、ラビとアレンの視線がぶつかる小さな窓にぽてりと体を落とす。 しばらく窓辺でもぞもぞと動いていた影は、不意に何かと一緒に落下してきた。 「ティムっ!」 翼ある親友が突然落下してきたことに、アレンはただ驚きの声を上げることしか出来なかった。 いくら再生可能なゴーレムだとしても、目の前で壊れてしまうのは辛い。 それを防いだのは、落下するティムキャンピーよりもアレンの叫ぶ声に、半ば反射的に行動を起こしていたラビだった。 ゴーレムが冷たい床と接触する前に、エクソシストが誇る反射神経を駆使して、掬い上げる。 「ラビ!」 一瞬後にはゴーレムを手にしたラビの名を呼んで、アレンが駆け寄る。 不自然な体勢を起こすと、無造作に整えた髪の隙間からいつもの笑みがのぞいた。 握りつぶさないよう、柔らかく握られた手を離すと、ティムキャンピーは何事も無かったかのように飛び出してくる。 「ティム…」 アレンはほっとして表情を緩めた。 ゴーレムはその肩に止まると、自らの労を労ってくれとせがむようにアレンの白い髪の毛を噛む。 しかし、まったくもって罰当たりな師を反面教師にした子供は、それより先に相棒を助けてくれた相手に礼を言うのを忘れなかった。 「ラビ、ありがとうございました。」 「いえいえ、どういたしまして。」 深々と頭を下げる子供に、つられるようにしてラビも頭を下げる。 頭を下げることによって必然的に視線を下げることになったアレンは、ラビの手の中にまだ何かあることに気付いて、視線をそのままに頭を上げた。 一瞬前まで15歳の少年らしい表情で自分に向かって笑いかけていたのに、今はもうそんな表情は欠片も残っていない。 ラビにはそれが酷くいたたまれなく思えたが、今更ゴーレムと一緒に落ちてきた鳥を隠すことは不可能だった。 小さく、熱を持たない小鳥を、さしだされた白と紅の手に乗せてやる。 「死んでいるんですか?」 手の平に置かれたそれを、アレンは感情の失せた眼で見つめた。 「どう思う?」 ラビは答えをくれない。 アレンは同じ姿勢のまま動かない小鳥を撫で回し、さまざまな角度から眺めて、最後にガラスの眼に自分が映っているのを哀しそうに眺めてから、ようやく小鳥から視線を外した。 「作り物ですか?」 向けられた言葉は一言であったが、アレンの銀灰色の眼はそれ以上のことを語っている。 こんなに本物そっくりなのに、どうして動かないの? 間違いなく本物の鳥の羽根なのに、どうしてこの眼は何も映さないの? 「剥製さ、アレン。」 「ハクセイ?」 知らない?と聞けば、子供は首を立てに振る。 「生き物の腹を掻っ捌いて、内臓や肉を根こそぎ体から抜いて、代わりに綿やおが屑を詰めて飾り物にするんさ。」 淡々と語るラビの表情は、自嘲の笑みを浮かべているようにも見える。 見たこと無い?と続けられて、アレンは何とも言えない表情を浮かべた。 そう言えば、義父と旅をしながら芸を売っていたころ、大きな町の駅なんかにはそういうものもあったような気がする。 たいていは鹿や何か、大きな動物の首から上だけだったけど、まさかこんな小さな生き物にまで、そんな残酷なことをしてしまうなんて。 「きっと教団の誰かが、骨董品店かどこかで買ってきたんだろうさ。」 ラビが表情を強張らせてしまったアレンの手の中から小鳥を取り、飛ぶことも鳴くことも出来なくなった剥製の頭にそっとキスを落とした。 「汝の魂が安らかに眠れますように。」 ごく簡単に祈りを済ませ、悲しげな子供を見やる。 今この小鳥の剥製を前に、何を考えているのか、何を思っているのか、何となく想像できるような気がした。 しばらく剥製を見つめていた子供は、不意にラビを見上げると、泣き出しそうな笑みで呟いた。 「僕も、剥製にしてしまえば良かったんですね。」 表情を変えないまま、自分を見つめてくる眼から視線をそらして、アレンは自嘲の笑みを浮かべる。 「アクマの骨組みに魂を入れる代わりに、マナの体におが屑を詰めていれば……」 半分熱に犯されて連ねた言葉は、無言のラビの平手によって遮られた。 「………」 乾いた痛みは長くは続かなかったが、アレンの右目からは涙が零れ落ちた。 相変わらず、左目は感情に関係なく無反応を押し通していて……。 「アレン。」 名前を呼んでみれば、子供はうつろに視線を上げる。 「アレン、心にも無いことを言うべきじゃないさ。」 ラビは怒ってはいなかったし、アレンも自分は言った言葉の意味は十分すぎるほどに解していた。 「――でも、今でも夢に視るんです。」 右目から一筋こぼれた涙に触れて、アレンは穏やかに微笑む。 「ほら、左目の涙は、マナが持っていってしまった。」 どうせなら、丸ごと全部持っていってくれればよかったのに……。 小鳥の頭に埋め込まれたガラスの眼を、紅い左手で撫でてから、アレンは右目の涙を拭った。 ラビに倣って、その小さな剥製の頭にキスを重ねる。 「哀れな小鳥に、魂の救済を。」 呟いて、剥製を胸に抱いたアレンの頭を、ラビがさらに抱き寄せて、その耳元で囁いた。 「哀れな子供に、魂の救済を…」 |
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