どれくらい悪かったかといえば、場所も相手も見境無くブリザードを吹き荒らし、ミッターマイヤーが顔色を変え、ロイエンタールが視線を逸らし、銀河の覇者たるラインハルトさえもがひっそりと凍傷を追うくらいに悪かった。 キルヒアイスと廊下で擦違っただけでそのオーラに当てられて、唐突に胃に痛みが走り、耳鳴りや頭痛を覚えてエミールのもとを訪れたものの人数は一桁では納まらないし、それに対して「それはシンシンショウですね」と、患者と同じくらい顔色を悪くした見習い医師少年がカタコトで答えるもの、もう何人目になるか分かったものじゃない。 そんな、災害規模で言うなら新型インフルエンザと張れるくらいには猛威を奮う歩くブリザードに、「いい加減にしろ公私混同は傍迷惑だと」真正面から言えた大人は、唯一歩くブリザードに対抗できるドライアイスの剣と称されたオーベルシュタインだけだった。 無論キルヒアイスはその程度では蚊に刺された程度のダメージしか受けない。 軽く 「何だキルヒアイス、凄く機嫌が悪そうだな!ついにに三行半でも突きつけられたのか?!」 と、純粋無垢な笑みで無邪気にのたまったアレクサンデルである。 純粋で無垢で無邪気で、そして無知であるが故の言葉だ。 その現場を目撃したもの達は、まだ幼いアレクサンデルの器の大きさを思い知ると同時に、大変な度胸を持った幼い大公の未来を、しかもごく数秒先の未来を危ぶんだ。 彼はおそらく、自分が火薬倉庫の中で花火をするとどうなるかという想像をしたことが無かったのだろう。 「アレク大公。」 「何だ?キルヒアイス。」 にこにこにっこり。 邪気と無邪気の静かな戦いは、始まると同時に決着がついた。 氷と焔の相容れない運命のように触れ合った瞬間に水蒸気爆発を起こすことも、達人同士の戦いが一瞬で決まるように…なんて攻防があったわけではない。 ただ単純に、アレクサンデルの無邪気がキルヒアイスの邪気に飲み込まれただけだった。 「いたいいたいいたいいたいいたい!!」 「こしゃまくれた生意気な口は縫い付けてあげますよ。」 キルヒアイスはにっこりと笑みを浮かべながら、アレクサンデルの右耳を引っ張った。 両者の身長と力の差を考えれば、小さな身体は簡単に持ち上がってしまう。 勿論口で言うほど楽ではないし、キルヒアイスは本当に持ち上げたりしなかったが、どうにか背伸びをしてそれに対抗するアレクサンデルからすれば、ほとんど全体重が右耳にかかっているのと変わらないから、その痛みたるや想像を絶するものだっただろう。 彼にしてみれば、ちょっとからかってみようなんて思っただけだったのだが、どうやら間が悪すぎたらしい。 アレクサンデルは、キルヒアイスの不機嫌の原因を、ストライクで当ててしまったのだ。 「キルヒアイス!何してるんだ、手を離せ!」 ばたばたと廊下を駆け抜けてくる足音に重なって、焦ったような声がキルヒアイスの名前を呼ぶ。 彼の幼馴染であり、主君であり、一時は恋敵とも噂され、そして無謀にもブリザードを吹き荒らしているキルヒアイスに喧嘩を吹っかけた子供の父親が、我が子の危機に呼ばれて飛び出てきたのである。 「おや、陛下。ご公務はどうしたんですか?」 しかしキルヒアイスは全く動じずに、アレクサンデルに向けた種類と全く同じ笑みを、ラインハルトにも向けて、飄々と答えたのである。 ラインハルトは一瞬だけ怯んだが、此処でひいてしまったら父親の威厳も皇帝の権威も失墜してしまう。 かろうじて踏みとどまり、「アレクを離せ、キルヒアイス。」と命令を出せば、キルヒアイスは小さく肩を竦めてその手を離した。 「ちちうえー!ちちうえー!!」 すかさず悪魔の手から逃げ出したアレクサンデルが、ラインハルトに飛びつく。 ほっとしたようにラインハルトが耳をさすってやり、たいしたことでもないことを確認すると、ラインハルトは少し呆れたように涙が滲んだ顔を覗き込んで問いかけた。 「お前、何したんだ?アレク。」 「『キルヒアイスの機嫌が悪いのは、に三行半でも突きつけられたのか?』って聞いただけです。」 自分が悪いことをしていないと信じている口調で、アレクサンデルは答えた。 その言葉に絶句して、思わずラインハルトがキルヒアイスに視線を移せば、彼は酷く機嫌が悪そうににっこりと微笑み返してきた。 思わず背筋にぞわぞわと悪寒が這い上がったラインハルトは、一つ溜息をついて吐き出した分の二酸化炭素に変わって新たに酸素を取り込むと、しゃがみこんでアレクサンデルの視線に高さをあわせた。 「アレク、それはお前が悪い。」 真面目腐って、ラインハルトがアレクサンデルに言い諭す。 世の中にはやって良いコトと悪いコトが数多くあるが、不機嫌なキルヒアイスにの名前を出すのは悪いことだ、と。 「悪いことですか?」とアレクサンデルが問い返せば、ラインハルトは更に表情を固くして答えた。 「そうだ。第一級禁止事項だ。灯油をかぶって煙草を吸うのと同じくらい危険なことだ。大体、キルヒアイスの機嫌の左右は全てが原因なんだからな。」 「分かりました。」 果たして何処まで深刻な話としてアレクサンデルがラインハルトの話を受け取ったのかは定かではないが、耳の痛みと共に父親の真剣さだけは充分に察したアレクサンデルも、真面目腐って頷いた。 「よし、それじゃあ安全地帯に非難するんだ。まっすぐ走れよ。絶対に振り返るなよ。」 ラインハルトも「男と男の約束だぞ」とばかりに頷き、脱兎の如く廊下を駆けていくアレクサンデルの背中を見送る。 完全にその姿が視界から消えたのを確認してから、ラインハルトは立ち上がってようやくキルヒアイスに向き直った。 「キルヒアイス、お前も大人気ないぞ。」 「それ以前にラインハルト様。ああいう会話は本人を前にして言うには些か失礼です。」 「そうか?俺は真剣にお前の機嫌を損ねることの危険性を説いたつもり何だか…」 「だから、それが普通本人を前にすることではないんですよ。」 苦笑めいたキルヒアイスの様子は、少しだけブリザードがやんできている様に思える。 ラインハルトはひっそりと溜息をつきながらも、キルヒアイスの表情を伺いながら問いかけた。 「それで、本当にここのところどうしたんだ?みんな嘆いているぞ。本当にと喧嘩でもしたのか?」 コレもある意味では自殺行為に近い質問なのかも知れない。 しかし、そろそろ一週間になるブリザードもいい加減に収めてもらわなくては、本当に新銀河帝国の政治中枢機能が麻痺してしまう。 皇帝であるが故に臣下の乱心まで処理しなければならないなど、とんでもない貧乏くじであるが、文句も言えないだろう。 キルヒアイス本人は、アレクサンデルを苛めたことで多少発散させたのか、ため息一つでの問いに答えた。 「喧嘩というわけではありませんよ。極めて良好です。ただ、ちょっと言われまして。」 「何を言われたんだ?」 「ラインハルト様には通じないかと思います。」 苦笑を滲ませた声は、少しラインハルトをからかっているような響きが含まれていた。 それに気付いたラインハルトは、何事についても張り合っていた少年時代のときのように感情を表して、キルヒアイスに突っかかる。 「どうしてそういい切るんだ。嫌なやつだな、お前は。何でもいいから、さっさと言え。皇帝命令だぞ。」 公私混同も甚だしい、というよりは、まるでガキ大将のノリで命令するラインハルトに、キルヒアイスは小さく両手を上げて降参の意を示してから答えた。 「に、お預けを食らってるんですよ。」 「お預け?」 「ええ。しばらくしたくない、とね。」 「したくない?何をだ?」 「今までそういうことを言われたことが無かったので、動揺していまして。理由も無ければ期限も無いですしね。苛立ってしょうがないんですよ。」 キルヒアイスが言ったとおり、ラインハルトはその言葉だけでは幼馴染の不機嫌の理由を察することが出来なかった。 勿論、『そういうコト』に関しては、素晴らしいぐらいに疎いラインハルトだから、気付いたところで真っ赤になって話にならなかっただろう。 だからあえてキルヒアイスはラインハルトの問いに答えず、あからさまに溜息をついて独り言のように続けた。 「ラインハルト様のように仏のように無欲になれたら、心乱されることもないのでしょうけど。」 |
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