キルヒアイスは仕事の手を休めて小さくため息をついて顔を上げた。 ダイニングテーブルの向かい側、彼のノートパソコンと、柑橘系のフルーツが大量に盛られた籠の先では、先程からが熱心にピンクグレープフルーツを剥いている。 その集中力と丁寧さたるや、そろそろの体温であったまってしまうのではと思う程、熱心だ。 グレープフルーツの食べ方には、半分に切ってスプーンやフォークで掬う方法もあるが、は蜜柑のように丁寧に皮を剥いて食べる方が好きらしい。 まずはへたの部分を切り落として、ナイフで切れ込みを入れて。 そして皮を剥き、中の白い繊維まで丁寧に取り除いていく。 それから、ようやく果実を包む薄皮を剥いて食べるのだ。 は別に、特別几帳面であるとかいう訳ではないのだが、どうしてか柑橘系のフルーツを食べるときには少しだけこだわりがあるらしい。 キルヒアイスは口元を掠める笑いを噛み殺して、を観察する。 実の形を崩さないように丁寧に。 ようやく果実を二つに割ったは、丁寧に実を一つずつに分けていく。 「あっ!」 時折上がる小さな悲鳴は、どうやら実を崩してしまったことを示しているらしい。 剥いたそばから食べて行くのかと思いきや、は時々上がる悲鳴とともに、形が崩れたものは口にするものの、綺麗に剥いたものはガラスの皿に並べていく。 キルヒアイスはしばらく自分の仕事も忘れてを眺めていたが、そのうち眉を潜め始めた。 素手で果物の皮を剥けば、果汁が滴るのは不可抗力だというのに、はいちいち指先や腕を伝った果汁をぺろりと舐めるのだ。 薄くて色付きの良い舌が姿を見せたり動いたりする度に、キルヒアイスは不満そうに眉をしかめる。 むろんそれは、「どうせ舐めるなら、」という、何とも一方的なものであるし、その自覚もあるから、キルヒアイスは眉をしかめるだけに留めているのだ。 そのうち、果実が崩れた嘆きにすら欲情しそうだと、苦笑めいた笑みが滲んだとき、彼のひそかな葛藤など知る由もないは、また一つ、ピンクグレープフルーツの実を崩して小さな悲鳴を上げた。 「ああっ!」 多分自分は、堪え性が無いんだろうな、と、キルヒアイスは思った。 気付いたときにはもう、無言で席を立っていたから。 「どうしたの?ジーク。」 そして、崩れた果実を手にしたままのの前で止まり、酷く残念そうな眼でピンクグレープフルーツとキルヒアイスを交互に見て、問い掛ける。 だからキルヒアイスは、の手の中ですでに人肌の温度になったピンクグレープフルーツのかけらを優しく奪うと、彼女の口の中に放り投げて、そして自分の口で封をした。 椅子に座ったままのに、覆いかぶさるようにして。 いつもなら瞬時に押し返そうとしている手が、だけど今日はキルヒアイスの服を掴む前に行き場を失った。 ピンクグレープフルーツの果汁でベタベタに汚れていることを思い出したのかもしれない。 キルヒアイスは、の呼吸も、唾液も、理性までもを奪おうとする。 勿論代わりに注ぎ込むのは、自分の呼吸と、唾液と、快楽だ。 危うく流されそうになるの、『何か』に怯えて震える手を、『何か』に堪えて震える手を、優しく取って、テーブルに釘付けて、そして更に深みを目指すように喰らい尽くす。 「――ふ…」 食い尽くされるようなキスから解放されて、は熱にうかされたように顔を上げた。 満足そうに微笑むキルヒアイスの顔は、意地悪だ、と、は思う。 上気している頬が、乱れた呼吸が、不規則に上下する胸の膨らみが。 その総べてが反則だ、と、キルヒアイスは思う。 「ジーク…」 「キスしたくて堪らなくなったと思ったら、身体が勝手に動いていたんだ。」 悪びれ無く答える声に、は酷く苦い虫を噛み潰したように表情を歪めた。 が、キルヒアイスは飄々としたものである。 「でも…」 「僕が、堪え性が無いことは、君が一番よく知っているだろう、。」 ことごとく、の言葉を先読みして、キルヒアイスは少し意地の悪い…というより、人の悪い笑みで笑う。 が、中も外もびりびりと痺れている口元に思わず手を触れると、キルヒアイスは満足そうに自分の席へ戻った。 そして再開した仕事は、今度は流れるように進んでいく。 自分は、単純なんだな、と。 内心で苦笑を浮かべるキルヒアイスを、今度はが紅潮した頬のまま、眺めていた。 もちろん、キルヒアイスはその視線に気付いている。 見られることに関して抵抗を感じなかった彼は、しばらくの好きにさせていたが、の反応が余りに鈍いことに小さく笑いが込み上げるのも止められなかった。 何やら考え込んでいるらしいは、キルヒアイスに視線を向けながらも、少し眉を潜めてみたり更に頬の色を濃くしてみたり、自分でそれに気付いているのかいないのか、中々忙しい。 時々自分を見て面白そうに笑いを噛み殺しているキルヒアイスにも、どうやら気付いていないらしかった。 「――ジーク、あのね…」 「なんだい、。」 まだ少しぽややんとしたの、譫言のような声に、キルヒアイスは彼女を見ないまま答えた。 はたった今キルヒアイスが触れた唇を指先で辿りながら、何か考えるようにどこかを見つめる。 多分、応えを求めた言葉ではなかったのだろう。 だからキルヒアイスもそのまま続けて問い掛けたりしなかった。 かしゃかしゃと、キルヒアイスが打つキーボードの音を聞きながら、は考える。 ついこの前、はファーストキスがレモンの味、なんて、そんなのはただのオブラートな表現に過ぎない、と。 実体験を根拠に確信した。 不用意な一言からたんを発した「キスの味」研究は、レモンと蜂蜜とバニラエッセンス、の3種類を試したところでが息を上げてしまったが、そもそもキスに味があったところで、分かる訳が無い。 それが、が導き出した結論であった。 そんな、感覚に意識を割ける程の余裕を、キルヒアイスは与えてくれないから。 前もそうだった。 今もそうだ。 だから、これからもそうなのだろう。 翻弄して、貪って、愛して愛して愛して。 苦しいくらいに注ぎ込まれる愛を、受け止めることだってままならないというのに。 「あ、そうか。」 不意に、は結論にたどり着いて、今度は地面から3センチ上の思考の海から自分で戻って来た。 キルヒアイスがキーボードを叩く手を止めて、無言でを見つめれば、は誰に向けるでもなく笑って、一人で納得していた。 「そうなんだわ。」 キスが、レモン味なのではないのだ。 きっと、初めてするキスを柑橘系の果物にたとえるのは、その舌をぴりぴりと痺れさせるような刺激が、似ているからなのだ、と。 絡め取られて、吸われて、噛まれて、舐められて。 そうして無くした理性が覚える刺激が、ファーストキスの眩暈に似ているから。 そうして教えられた本能が求める感覚が、柑橘系のフルーツが残す痺れに似ているから。 だかからそういう比喩的表現をするのだ、と。 勝手に自己完結したは、その結論に酷く満足した。 しかし、悶々とした感覚がすっきりして、おもむろに残りの柑橘系フルーツの皮を剥こうと手伸ばそうとしたところで、キルヒアイスの視線と真正面からぶつかってしまい、大いにうろたえてしまった。 むろん、そんな分かりやすいの動揺を、キルヒアイスが見逃すはずもない。 に言わせると、悪巧みをしているとしか思えない爽やかさでにっこりと笑うと、キルヒアイスはが取ろうとしていたピンクグレープフルーツを一つ手に取り、丁寧に皮を剥きながら問い掛けた。 「何を、考えていたのかな?。」 「――なんでもないわ。」 「そんなに真っ赤になっているのに?」 「ジークの眼の錯覚よ!」 「そうかな?」 楽しそうに笑いながら、キルヒアイスはまた椅子から立ち上がって、ゆるりとした足取りでの前にたつ。 流石に二回目ともなれば、だって少しは警戒したが、胡散臭過ぎるほど人畜無害を装ったキルヒアイスの笑みに、はそのタイミングを完全に見失ってしまった。 或は、逃げるものを追い掛けるという行動パターンが組み込まれた男性の本能にたいする、自衛手段のつもりだったのかもしれないけれど。 「無理に話さなくてもいいけどね、。」 「なぁに?」 「すぐに話したくなると思うよ。」 「ジーク、それってどういう…」 こと?と。 意味が掴めずに続けようとした言葉は、にっこりと笑ったままのキルヒアイスによって遮られてしまった。 「はい、。あーん。」 先程剥いたピンクグレープフルーツの実を、キルヒアイスが問い掛けようとしていたの口元に差し出す。 訝しみながらもが口を開けば、ぽんっとその果物が放り込まれて、の口に独特の味が広がった。 「美味しいかい?」 「うん。」 「それはよかった。じゃあ、続きを味わおうね。」 そして。 近付いてきたそれは、柔らかくて、甘くて酸っぱくて、そして少し苦い味。 を塞いで、逃げ場を無くしてから押し寄せてくる、舌をびりびりと痺れさせるその感覚に。 自分でそう結論付けた通り、キルヒアイスが注いでくる感覚に、は今度は抗い切れず、果汁に濡れた手の平でキルヒアイスの服に縋ってしまった。 |
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