ようやく、客、というよりは、打算と下心に塗れた貴族たちから解放されたラインハルトは、豪奢な金髪を不機嫌そうに揺らしながら、カクテルをあおっていた。 礼儀上呼ばざるを得なかった貴族たちの相手が、予想以上に煩わしかったらしい。 取るに足らない軍人であったときには「生意気な金髪の小僧」と蔑んでいたくせに、ラインハルトがローエングラム伯爵家を名乗り、元帥府を開いて旧貴族のブラウンシュヴァイク=リッテンハイム連合軍を打ち破るや否や、彼らは文字通り手のひらを返して平身低頭したのである。 そんなに機嫌を損ねるくらいなら、呼ばなければいいのに、とは思うのだが、政治上のやり取りをかねているからにはそうもいかないのだろう。 いずれは切り取る病巣だとしても、むやみやたらとメスを振るうわけにもいかないのだ。 いろいろ大変なんだなぁと、が歳相応の思考を持ってようやく体が空いたらしいラインハルトの背中に声をかけると、ラインハルトは一瞬笑みを浮かべたが、直ぐにそれを元のように押し込めて、開口一番不機嫌そうに呟いた。 「何だ、それは。」 それ、というのが、自分の髪にやんわりと挿されていた薔薇だということにすぐ気がついたは、軽くそれに触れて「似合う?」と笑った。本当に軽く挿し込まれただけの薔薇は、その拍子にすぐ取れてしまったのだが、は残念がる様子も特に無く、微笑のままにそれに軽く口付けて答える。 切り取られて間も無いのか、心地よい芳香が鼻をくすぐった。 「『お近づきのしるしです』って、さっき頂いたの。私の眼と同じ色の薔薇だって。綺麗でしょう?」 「そんなに握り締めていたら直ぐに萎れるぞ。」 真っ赤な薔薇を握り締めたは酷くご機嫌な様子だ。 ラインハルトは、たかが薔薇一本で、と思わないでもないが、彼や彼の姉とはまた違った意味で美貌の幼馴染は、どうやら細いリボンを結んだ一本の薔薇がいたく気に入ったようで幸せそうな笑みを浮かべている。 純白のリボンに、深紅の薔薇。 確かにその一輪は美しい少女をさらに美しく見せるために一役買っているが、どうやらラインハルトにはそれが気に入らなかったらしい。 が美しいことを彼は知っていたが、それを知っているのは自分たちだけで十分だと思っていたのである。 おそらく、の美しさにまったく気付かない輩に対しては、「お前の眼は節穴か」と言うに違いないだろうが、この場合は、自分以外の、しかもどこの誰とも知らない輩が加えた美しさが面白くなくて、ラインハルトの口調は本人の意思とは関係なく硬い響きを帯びていた。 実際には、ラインハルト部下であるミッターマイヤーの愛妻・エヴァンゼリンが、妹や娘を着飾らせる程度のつもりでを飾ったに過ぎないのだが、無論ラインハルトはそんなことは知る由もない。十中八九、に言い寄ろうとする男が渡したのだろうと、一方的に思い込み、そして一方的にその機嫌を急降下させていった。 としては、女性―しかも目の前の幼馴染の部下の妻だ―に貰った薔薇がどうしてそこまでラインハルトの機嫌を損ねるのか理解に苦しむといった様子で、少し考えてから「それじゃあ少し屈んでくれる?」と言ってきた。 訝しく思いながらも要望どおり屈んでやれば、は何か良いことを思いついたときの表情でラインハルトの髪に触れてくる。 「どうするつもりだ?」 「はい、出来た。」 互いが声を発したのはほぼ同時で、が近距離から一歩下がると、ラインハルトは屈んでいた背を伸ばして、今までが触れていた場所に手を触れた。 先ほどまでの手の中にあった薔薇が、今度はラインハルトの髪に挿されている。 無造作に背中に流した、緩やかな金の中に深紅の薔薇が一輪。 とはまた違った意味で豪奢な彩を添えた薔薇に、彼女は更に満足げに笑った。 「私、薔薇が似合うって言われたのだけど、ラインハルトの方が、薔薇が似合うみたいね。」 「馬鹿なことを。」 「馬鹿じゃないよ。ラインハルトは自分が美人だってことを、知らないんでしょう?」 無邪気に笑いながら言うに、ラインハルトは苦笑を浮かべる。 それを言うならも同じだろうと、ラインハルトは思ったのだが、第三者から言わせればどっちもどっちであった。 というより、これはとラインハルトとキルヒアイスに共通している奇妙な点で、彼らは内面外面を問わず、相手の美しさについては他の誰よりも理解しているくせに、こと自分自身のことになると、正常な審美眼を持っていなかった。 「うん。ラインハルトは紅い薔薇が似合う。髪の毛が金色だから、赤と金でとってもおめでたい感じ。」 自分に似合うからと与えられた薔薇を、自身が知りうる限り一番美しい男に指して、は満足そうに笑った。 「だけど、この薔薇は私が貰った薔薇だから、後でちゃんと返してね」と、は一言付け加えるのも忘れない。しかし、自分を薔薇で飾るときのがあんまり嬉しそうな笑顔を浮かべるものだから、ラインハルトも些か苦いものも混ざりつつ笑みを返さずには居られない。 こんな戯れは公衆の面前でするようなことでもないし、以外のほかの誰かであれば、手厳しく拒絶するところを、ラインハルトは苦笑の一つで許容したのだ。 壁際では、先ほどまでと一緒だったロイエンタールとミッターマイヤーが七三二年ものと七二三年もののワインを飲み比べながら、何か物珍しいものでも見るかのようにその光景を見守っていたが、それにも気付いていないのか、とラインハルトの行動は呑気なものだった。 彼らの視界に映るラインハルトはとても大軍を率いて戦う元帥には見えず、このときは物慣れぬ若い恋人たちを見るようなほほえましさがあった。 特にミッターマイヤーなどからすれば、ラインハルトとの年齢差が自身と愛妻のエヴァンゼリンと同じであることから、年長者で既婚者であることを除いても、一種の親近感を持っているようだ。 女性関係で名を馳せるロイエンタールなどにして見れば、やや歯がゆいものがあったが、何も元帥の私生活について口を突っ込むなど、自殺行為に匹敵するほど愚かしい。 ラインハルトが触ったせいで、僅かに歪んだ薔薇を直そうと、が背伸びをしてその髪と花に触れようとする。 しかし思ったより大きかった身長差にバランスを崩したのと、偶然が重なって、彼女は「あ」という間の抜けた一言と共に手を引っ込めた。 「どうした?」 「棘、刺したみたい。」 は特に痛がる様子も無かったが、しかし白い膚に浮かんだ鮮血を見て、ラインハルトは一つ溜息をつくと、その小さな手を取って、自身の口元に添えた。 「ラインハルト?」 どうするのかと、そのまま見ていたの細い指を、ぺろりと舐めあげる。 人前で、紳士が淑女に行う行動ではなかったが、周囲で見ている人々はともかく、当事者の二人は些か感覚がズレているようだった。 「ラインハルト……鉄分不足なの?」 「誰が好んで血を飲むか、バカ。抑えていろ。直ぐに止まる。」 は一応たしなめるようにラインハルトを見上げたが、自身というよりは、ラインハルトの身分を慮ってのことであったし、ラインハルトに至っては何が問題行動なのかすら理解していなかっただろう。 胸のポケットから白いハンカチを出して、の指を包む。 は「大げさだよ」と笑ったが、ラインハルトからすれば少しでもに傷を付けるものは、総て排除しなければ気がすまないとでも言うような勢いだった。 過保護にも程があると、元帥府の僚友たちは思わないでもないが、それは言っても今更だ。 ラインハルトは自身の豪奢な髪に指された薔薇を抜き取り、棘を丁寧に抜いていく。 「大体、誰に渡されたかは知らんが、薔薇は普通棘を抜いてから渡すものだぞ。」 「そうなの?『綺麗な薔薇には棘がある』って、有名な格言があるのに?」 「それは花に例えたときの格言だろう?まったく、棘くらい気をつけろ。特には昔から抜けてるんだからな。」 にやりと笑った顔に、は僅かに頬を膨らませて返したが、それも長くは続かなかった。 丁寧に棘を取った薔薇を、よりも何倍か様になる動作で、今度は綺麗な銀色の流れを作るの髪に挿してやる。 幼馴染を飾ったその手での髪を一筋すくって、そしてラインハルトは笑って言った。とろけるように優しい笑みだ。 「お似合いだ。髪に良く映える。だが、服には合わないな。」 言うなり、が鏡でそれを確認する前にひょいっと薔薇を抜き、近くのテーブルに置いていたシャンパンのグラスの中にさした。流れるような動作に、には薔薇を取り返す暇も無かった。 意を唱えようと口を開くと、ラインハルトは不適に笑って返す。 「薔薇なら今度買ってやる。一輪とは言わず、好きなだけな。」 「そういう問題じゃないのに。」 「棘もちゃんと抜いてやる。もちろんリボンもつけてな。だから今日は、一曲相手をしてもらえると嬉しいんだが、フロイライン。」 ごねるの反論は、完全に黙殺されてしまった。 断られるとは微塵も思っていない申し出に、は一つ溜息をついてから、淑女らしくドレスの裾をつまんで一礼をする。 どうやら、先ほどロイエンタールを相手に練習したワルツを披露するときが来たらしい。 ロイエンタールとは立て続けに踊って息も絶え絶えになったが、今回は一曲だけといわれたし、何よりコルセットにも大分慣れてきたような気がする。多分、足を踏んで恥をかくことも、相手にかかせる心配もないだろう。 覚悟を決めて、がラインハルトの手を取ると、ラインハルトはロイエンタールより少し慣れない手つきでの腰に手をまわした。 そのまま曲に合わせてくるくると踊り始めた二人を遠まわしに見ていた幕僚の中で、今日ののドレスがラインハルトの見立てであると知っていたキルヒアイスだけが、気の毒にもシャンパンに浸される運命を辿った一輪の薔薇と、幼馴染の二人の男女の後姿を交互に見ながら苦笑を浮かべていた。 |
(C) 2005-2009 Replica Fantasy 月城憂. Some Rights Reserved.