浅いまどろみの中から目を醒ますと、その覚醒を待っていたのは、アンネローゼの微笑だった。 のベッドの横に構え、その様子をうかがいながらも針を進めていた美貌の女性は、柔らかな寝具に埋もれて視線をめぐらしたに、そっと手を止めて微笑んだのである。 「――ねえさま?」 「ええ。 久しぶりね、。 具合はどう? 辛ければ、まだ眠っていていいのよ?」 優しく額を撫でる手が心地よい。 は身を沈めるように大きく息を吐いた。 冷たいようで暖かいアンネローゼの手は、幼少の頃に風邪を引いて寝込んでしまったときと少しだけ似ていた。 「ここ、どこ?」 「シュワルツェンの館よ。 ラインハルトが連れてきたの、覚えていない?」 アンネローゼは子守唄を歌うようにに問いかける。 少しだけ身じろきをすると、横たわった身体に痛みが走った。 反射的に眉をしかめれば、アンネローゼが気遣うように覗き着込んでくる。 「無理をしてはいけないわ。 お医者様はたいしたことはないと仰っていたけれど、無茶をしたことには代わりが無いでしょう?」 貴方は女の子なのに、と。 アンネローゼは酷く心配そうに自分の名前を呼んでくる。 だが、にはアンネローゼの言葉が上手く飲み込めなかった。 何か薄い膜が脳内にかかっているようで、するりと入ってこない。 「ねえさま…」 「なぁに?」 「わたし、どうしたのかしら?」 「、あなた、覚えていないの?」 「どうして、からだがいたいのかしら?」 虚ろに呟かれた言葉は、がここ暫くの記憶をとどめて居ないことを示していた。 そして、そのままがまた眠りについたところで、アンネローゼによって医師が呼び出され、次に目覚めたを待っていたのは、先ほどよりも更に心配そうに自分を見つめるアンネローゼと、その覚醒を待っていた医師団だったのである。 結局のところ、の記憶喪失と思われる症状は、解離性健忘のようなものという、心因性の症状であると判断された。 曰く、あまりに衝撃的なことが身に降りかかると、時折人は記憶を自分の負担にならないように忘却の彼方に追いやってしまうことがある、ということだった。 アンネローゼは、この内戦で何があったか詳しいことは知らない。 どうやらが貴族軍に連れ去られてしまったということは聞いていたが、その一点を告げられただけだったのだ。 したがって、がガイエスブルグ要塞で記憶を混乱させてしまうほど、辛い目にあったのかと危惧したのである。 「、もう大丈夫よ。 此処は安全なのだから。」 「変な姉様。 私は、何もしなかったのに。 いつだって一番安全なところにいたのよ。」 それは、の認識している全てだった。 実際、が砲火にさらされたことは一度も無い。 ただ、の精神に負荷が掛かりすぎたのだ。 ブラウンシュヴァイク=リッテンハイム連合による拉致に始まり、ヴェスターラントの核攻撃、そして、ラインハルトを狙った暗殺。 ラインハルトやキルヒアイスの力になりたかったのに、逆に心配をかけてしまった。 ヴェスターラントも、結局全ての核を止めることは出来なかった。 ラインハルトの暗殺こそ阻止したものの、そこで初めて、自分は、この手で…… 「――なにか、思い出しそうなんだけど」 それを思い出そうとすると、どうしてか頭痛が走る。 はベッドの中で膝を抱えた。 医師団を見送ったアンネローゼは、ベッドの脇で起用に林檎の皮を剥きながら応えた。 「無理をすることは無いわ。 忘れてしまいたいことなら忘れてしまいなさい。」 「うん。」 力なく頷いて、は抱えた膝の上に頭を乗せた。 ただ、自分の頭を支えるという動作が、酷く難しい。 こんなに自分の頭は重かっただろうか。 くたりと、全身を支えることさえ困難に思えて、は両手までもをベッドの上に投げ出した。 奇妙な体勢でこちらに視線を送るに、アンネローゼも林檎の皮を剥く手を止める。 「、まだ本調子じゃないのだもの。 無理をしてはいけないわ。 疲れたのなら眠ってしまいなさい。」 アンネローゼは言うが、はまるでその言葉など聞こえなかったかのように、不意に首をかしげて問いかけた。 「ねえ、姉様。 ラインハルトとジークは、どこにいるの? 帰って来たのでしょう?」 その問いを受けて、初めてアンネローゼの行動に不自然さが生じた。 その一瞬だけ、静止したアンネローゼは、自身の弟とその友人に、少なからず腹を立てていたのである。 非常に珍しいことだった。 だが、くるりと振り返ってに向けた微笑は、そんな刃毀れなど微塵も感じさせない微笑だった。 「――内戦の、事後処理があるようよ。 暫くは、元帥府に泊り込まないといけないと言っていたわ。」 「そうなの?」 「ええ。」 酷く落胆したように、は肩を落とす。 もともと弛緩していた身体が更に小さくなったように見えて、アンネローゼは流石にその身体に手を伸ばした。 「さぁ、。 貴方が眠るまで、此処に居て手を繋いでいてあげるから。」 ゆっくりと肩を撫でれば、は素直に頷いてベッドに横になる。 寝息が聞こえてくるまで、数分とかからなかった。 約束どおり、が眠るまでその手を握っていたアンネローゼは、その無防備な寝顔を見つめて一つ溜息をつく。 まだ、幼いのに。 この少女は、どれだけの不運を背負えばよいのだろうか。 その言葉を聴けば、はアンネローゼ自身に対しても同じことを言っただろう。 事態は違えど、権力に翻弄されて消耗していく様を、アンネローゼは身をもって知っていたのだ。 ゆるりとアンネローゼは立ち上がる。 それにしても、と、秘かな呟きを漏らしながら。 小さな寝顔を見ながら、彼女は怒っていたのだ。 凱旋するなり、傷つき、疲れ果てたを抱えて連れ帰り、そして自分に託して以後、シュワルツェンの館に寄り付かなくなった、ラインハルトとキルヒアイスのことを。 |
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