柔らかで優しい声。 しかし、それに包まれた鋭利な刃物で切りつけられたように、ラインハルトの身体は硬直した。 言葉にしなくても明白なその反応に、は「そう」と、短く応える。 ラインハルトにとって、ヴェスターラントの惨劇は生涯付きまとうことになるのだろう。 直接手を下さなかったとはいえ、止めようと思えば止められたはずなのに、それを黙認したのだ。 同罪だった。 の言葉に固まってしまったのは、キルヒアイスも同じだった。 自分はラインハルトに対して同じことを問いかけたはずなのに、の言葉に酷く衝撃を受けている。 この、最も安全な場所に閉じ込めて、汚いことや辛いことから遠ざけて置きたかった少女は、一体何処まで知っていて、何処まで関与していたのだろうか。 しかしは、戦慄した二人の幼馴染に対して、何も変わらなかった。 責めるわけでもなく、怒るわけでもない。 ヴェスターラントの惨劇を、最も近くで見たと言うのに、彼女は笑ったのだ。 「大丈夫よ。 みんな分かってる。 分かってると、思うの。」 ラインハルトから離れると、はまだ強張った表情で自分を見つめている二人に対して、言い聞かせるように言う。 泣きそうな表情で笑いながら。 だがその微温湯のような居心地の空気は、唐突にノックと共にオーベルシュタインが部屋に入ってくるまでの話だった。 無表情、無感情の「ドライアイスの剣」と呼ばれるオーベルシュタインが部屋に入ってきた瞬間、の表情は怒りという感情と、涙に支配されてしまったのである。 はリスのように振り返り、そのままヒールを鳴らせると、オーベルシュタインに手を振り上げたのだ。 「「っ!!」」 が何をしようとしているのか瞬間的に理解したラインハルトとキルヒアイスは、同時に叫んだ。 だが、それは軽やかに身を翻した少女を止めることが出来なかった。 ぱぁん、と、小さく、しかし小気味よい音が会議室に響く。 ローエングラム元帥府において、最も扱いにくい人物であると万人の評価を受けるオーベルシュタインに向かって、は強烈な平手打ちを食らわせたのである。 「私のラインハルトを、ただの殺戮者にしないで。」 零れ落ちた涙もそのままに、はその平手によって不自然に傾いたオーベルシュタインを睨みつける。 叩かれた方は、確かに驚いているはずだったが、それを表情には出さなかった。 の言葉に動揺を隠せなかったのは、彼女の背後に取り残されたラインハルトとキルヒアイスの方だ。 背中に氷塊を落とされたような錯覚に襲われる。 いつまでも無垢で無力なはずのの口から発せられた『殺戮者』という言葉は、ラインハルトとキルヒアイスにとって今までのどの戦場におけるどんな武器よりも、脅威だった。 「オーベルシュタイン提督が進言した言葉でも、歴史に刻まれるときには、全部ラインハルトの名前になるの。」 まるで感情が津波に変化してしまったようだ。 の、こんなに激しい一面を見たことが無かったオーベルシュタインは、僅かに眉を上げたが、それでも平然と目の前で叫ぶを無言のまま見下ろしている。 ラインハルトとキルヒアイスは、の慟哭のような声を、ただ聞いているしか出来なかった。 「大人数を救うための犠牲とか、ラインハルトが拒否出来ない理由を出したんでしょう?! そんなの、卑怯よ!!」 ぎっと、自分を睨みつけてくる子供の姿に、オーベルシュタインは場違いは承知で一種の新鮮味を覚えていた。 大人でさえ、軍人でさえ自分に真っ向から意見を言うものなど殆ど居ないというのに、そのどちらでもないは、まず実力行使から入ったのだ。 あるいは、子供であるからこそ、それが可能だったのかもしれないが。 だが、オーベルシュタインは叩かれた程度で理性を無くすような人間ではなかったし、自分の行動がどのようなものであるかも、それが多くに人間には耐え難いものであることも良く知っていた。 そして、感情以前の問題として、理にかなっているそれらのことを、曲げるような人間でもなかったのだ。 「では、フロイライン。 あなたはこのまま内戦が長引けば、あとどれほどの犠牲が出るか、予測がつくか?」 感情を伴わない低い声が、を切りつける。 はオーベルシュタインの言葉を、逃げることなく受け止めていたが、その大きな眼からは新たな涙がこぼれた。 「長引けば敵味方の如何に関わらず、多くの命が失われる。 戦争とはそういうものだ。無辜の民と戦場の兵士にも、命の重さに差は無い。 ヴェスターラントは幸いにして、全滅を免れた。 それこそ、最小の犠牲で済んだのだ。 貴女のおかげでな。 フロイライン・クロプシュトック。」 「オーベルシュタイン!」 普段よりも饒舌に語るオーベルシュタインに、ラインハルトが声を荒げる。 だが、冷徹な参謀長はやはり表情を変えることなく黄金の獅子を見やった。 「事実です。 そもそも、最も早く内戦を終わらせ、多くの命を救いたいのであれば、ブラウンシュヴァイク公を暗殺するべきだった。 その状況も、手段もあった。 だが、実際には実行には移されなかった。 ならば、それ以外の方法で戦うしかない。 違いますか?」 オーベルシュタインの発言は、悪意こそ含んでいなかったものの、充分に辛辣であった。 彼は固有名詞を出さなかったが、「あなたが暗殺を行っていればそれで済んだのだ」と、そこに居る誰もがそう言っている事を理解した。 「オーベルシュタイン提督!」 「何でしょう、キルヒアイス提督。」 思わずキルヒアイスがオーベルシュタインの胸倉につかみかかったが、オーベルシュタインは平然とそれを返した。 「――そうかもしれません。」 不意に、が口を開いて、それがキルヒアイスの行動を止めた。 今まで昂然とオーベルシュタインを睨みつけていた顔は、俯かれて髪に隠れている。 小さな身体は小刻みに震えていた。 「私は、自分がしたことを、今でも疑問に思ってる。 本当にヴェスターラントの人を助けたかったのか。 人の命を助けたいと思っていたけど、私は核攻撃隊については、なんの躊躇いも疑問もなくその人たちを撃ち落としました。 彼らだって、ブラウンシュヴァイク公に逆らう術が無かったから、出撃しただけだったかも知れないのに。」 戦場では、それが当たり前のことだ。ぐちゃぐちゃ考えていては、こちらがやられてしまう。 だが、今まで戦場を知らなかったには、それが上手く馴染まない。 本来であれば、それが当然であるし、馴染む必要も無いのだ。 だけど馴染めないからこそ、その時に夢中で取った行動も、冷静になった後には嫌悪と罪悪感でしかない。 「そうですね。 何も考えずに、ブラウンシュヴァイク公を殺してしまえばよかったのかも知れません。」 私は、銃も毒も、持っていました。と。 感情が引ききった水際のように、茫然とが呟く。 こうなるのが怖かったから、ラインハルトとキルヒアイスはを鳥篭に隠していたかったのだ。 壊れてしまいそうな、少女は、今まさに壊れてしまったのかもしれない。 ラインハルトは静かに近付くと、を抱きしめて言った。 「、もういい。 お前は悪くない。」 「――ラインハルト。」 どんな言葉なら、は応えてくれるのだろうか。 ごく短い間にラインハルトは考えたが、不可能などありえないと思わせるこの若い覇者にも、それは見出せなかった。 結局、彼は自分の思いを口にするしかなかったのだ。 それが、是と非のどちらを持って報われるかは、及びもつかない。 ブラウンシュヴァイク公の暗殺は、確かに話には出ていた。 だが、ラインハルト自身がそれを拒否したのだ。 宇宙を盗みたいのではない、奪いたいのだと、そう公言して。 ヴェウスターラントの一件も、黙認しろと進言したのはオーベルシュタインだが、決定を下したのはラインハルト自身であり、その決定が熟考するほどの時間を与えられない状況下での判断であることも、迷ったのも、後悔したのも事実だが、それでも最終的に決定を下したのもまた、ゆるぎない事実なのだ。 そして、オーベルシュタインの言い方は乱暴であるが、の働きによって最小の犠牲で済んだこともまた事実である。 それに対してラインハルトは、新たな覇者として、幼馴染として、その両者の立場から言葉を選ばなくてはいけない。 「、お前のおかげで俺は歴史に汚点を刻まなくて済んだんだ。 お前が責めるべきは、自分でもオーベルシュタインでもない。 俺だ。」 「…………………」 は沈黙を持って返した。 その手が、抱きすくめたラインハルトの胸の中で、小さく軍服を掴む。 かすかな嗚咽の隙間から、は消え入りそうな声を漏らした。 「たくさんの人が死んだの。」 そして、の声は、耳鳴りがしそうなほどに静まり返った部屋に、吸い込まれていく。 私は、全部を止められなかった、と。 二百万人のうちの、大部分が助かったのだから、後に紡がれる歴史には、犠牲者たちの命は「それだけで済んだ」と黙殺されるのかも知れない。 それでも、たくさんの命だったのに。 「だけど私、ヴェスターラントの全てが殺されなかったことを、喜んでるの。 ラインハルトが非難されずに済んだことを、喜んでるの。」 虚ろな声は、とても言葉通りに喜んでいるとは感じられなかった。 だが、にとってはそれもまた事実なのであろう。 ヴェスターラントに核が落とされたことは、既に帝国中に広がっている。 監視衛星が破壊されるまで送信されていた映像によって。 貴族へ対する民衆の感情は爆発し、とても彼らの手には負えなくなるだろう。 事実上、ヴェスターラントは貴族軍を離反したファーレンハイトと、それを説得したによって殺戮を免れ、ローエングラム軍にとっては都合のいい終決を迎えようとしている。 今度こそ、ラインハルトは自分が何を言うべきなのかを、理解していた。 キルヒアイスを相手にしたときには、あれほど口にすることが困難だった一言が、驚くほど簡単に滑り落ちた。 「あんなことは一度きりだ。 今後、絶対にしない。」 やはり沈黙を持って応えたは、抱きすくめられたラインハルトの腕の中で頷いた。 同時に、この内戦の終結を迎える一戦が開始したことを、ブリュンヒルトの警報が告げたのである。 |
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