甘い菓子の香りは、自分達にとって幸福の象徴なのだ、と、キルヒアイスは思う。 ナイフの刃を入れられたばかりの巴旦杏のケーキから零れた微量のバニラエッセンスの香りも、メレンゲに振り掛けられた粉砂糖の匂いも、ふわりとが身を翻す度にラインハルトとキルヒアイスの鼻梁を擽ってくる。 ささやかな幸福の形は、形こそ10年前とは違うもの、その中身は寸分違わぬものなのかもしれない。 愛らしかった子供は更に愛らしい少女へと成長し、美しかった少女は更に美しい女性へと変化した。 そしてその頃から同性の嫉妬と羨望と異性の意味深い視線を受けていた少年達は青年へと成長していたが、彼等も彼女達もその本質は変わっていない。 だから、本来なら『戻って来た』という表現を用いたいのかもしれない。 そんな柔らかな空間と穏やかな時間でラインハルトとキルヒアイスを迎えたアンネローゼは、久しぶりの再会に楽しそうに笑って、が待つサロンへと二人を通した。 すでにお茶の用意を整えて待っていたも、昨夜ぶりの再会を果たした二人を笑顔で迎え入れた。 多分、甘い香りを放つのは手作りの菓子だけではないだろうと、ラインハルトは思う。 アンネローゼもも、その性格上、客人は自ら準備をしてもてなすタイプであるから、ラインハルトとキルヒアイスは大人しくソファに身を預けて待っていた。 ひらひらと泳ぐエプロンを結んだリボンの素材は、10年前とは比べ物にならない程良い物になったが、それがもたらす衝動は変わらない。 「、お前だって客なんだろう?後は姉上に任せて座ったらどうだ?」 ラインハルトはの背中で結ばれたエプロンのリボンを掴む。 しゅるっと小さな音を立てて解かれたエプロンに、は慌てて振り返った。 どう考えても実用性よりデザインを重視されたエプロン。 無数のフリルにまみれたそれはきっと、アンネローゼがに着せたものだ。 多分、もアンネローゼも、気分を味わいたいだけなのである。 「でも…」 「アンネローゼ様の邪魔になってしまうよ?」 残念そうに呟くに、キルヒアイスが苦笑めいたものを口元に刻みながら続ける。 は更に迷った様にソファに座ったラインハルトとキルヒアイスを見て、アンネローゼを見る。 もてなす側か、もてなされる側か、曖昧な立場にいるらしいは、どうやら自分の次の行動を決め兼ねているらしい。 だからラインハルトは無言のまま、ぱしりとその細い手首を掴んだ。 それを見たアンネローゼは、少し子供じみた弟の行動に笑みを浮かべながら、に持っていた菓子を皿ごと渡した。 「そうね、もう充分だわ。私としたことが、すっかり忘れてしまっていたけど、貴女もお客様だったわね。」 それを、テーブルに並べておいて貰える?と。 女主にそう言われてしまっては、も従うよりない。 「ラインハルト、手を離してくれる?」 「何故?」 「何故って、離してくれなきゃ座れないわ。」 「ふうん。」 ローテーブルを挟んだ二人掛けのソファが二つ。 ラインハルトとキルヒアイスは向かい合って座っている。 だから、が座ろうとすれば、ソファの背を回って反対側から座らなくてはならないし、ラインハルトに手を掴まれたままでは回り込めない。 一応それを理解したらしいラインハルトが手を離せば、はくるりと二人の幼馴染が座っているソファを迂回して小さな身体をクッションの効いたソファの中にうずめる。 その前に手作りの菓子が並べられた皿に手を伸ばしかけて、女主が着席しないうちからそれに手をつけるのははしたないと思い直したのか、紅茶のカップだけを片手にアンネローゼを待った、のだが。 「まあ、ダメよ、そんな事をしては。」 「だってアンネローゼ姉様、」 「だっても何もありません。」 ソファの上でカップを片手に膝を抱えようとしていたを、アンネローゼが窘める。 それがのお気に入りの体勢であり、しょっちゅうしているものでもあるから、ラインハルトとキルヒアイスは特に気にもしなかったが、やはりアンネローゼから言わせるとマズイらしい。 やんわりと微笑んで、しかし渋るをすぱんと切ったアンネローゼは、もう一切れの皿にケーキを乗せてやりながら続ける。 「貴女も年頃の女の子でしょう?そろそろ縁談の話も舞い込んで来ているのだから、きちんとしなくてはダメよ。」 ふふっと微笑みながらを窘めたアンネローゼの言葉に、ぶぶっと口に含んでいたものでむせ返ったのは、むろんラインハルトとキルヒアイスである。 はそれを見てぷぷっと少しだけ笑ったが、ラインハルトやキルヒアイスからしてみれば、に縁談が舞い込んで来ているなど寝耳に水の話だ。 冗談ではない!と、叫び出したいところであるが、多分冗談ではないだろう。 自分達がアスターテの会戦に出るまではそんな話など聞いたことも無かったが、それはもしかしたら鬼の居ぬ間に何とやらということだったのかもしれない。 「それで!!まさか結婚するなんて言い出さないだろうなっ?!」 「まさか。だって私、まだ15よ?いくらなんでも早過ぎだわ。」 ごく当たり前のようにラインハルトがの結婚について否定したことに、キルヒアイスは少しだけ安堵した。 何せキルヒアイス自身は思ってもみなかったことに驚愕の方が勝り、言葉が出なかったのだから。 そしてもまた、ごく当然のようにラインハルトの否定を肯定したが、彼女はきっと結婚の申し込みが来たこと自体も、軽い冗談くらいにしか思っていないのだろう。 貴族の中には年齢差など、あってないも同然である。 彼等の最優先事項は相手の社会的地位とその背景であり、次はそれに釣り合う美しさなのだから。 「でもね、。」 それをよりも、更にはラインハルトやキルヒアイスよりもよく理解しているアンネローゼは静かに口を挟む。 それぞれ異なる光彩で陽の光を反射させた視線に見つめられて、アンネローゼは一瞬言葉を失った。 「私が陛下に召し出されたのは、15歳の時だったのよ」と。 言うのは簡単だ。 だが、それを言うことで、まだ無邪気でいられる筈のに影を落としたくはなかった。 だけではない。 それは、永くラインハルトとキルヒアイスの中で重く沈んでいるものに、更に鎖を繋げるようなものである。 「アンネローゼ姉様?」 アンネローゼの白く透き通るような肌に、暗く落ちた睫毛の影。 それを見て取ったが心配そうに身を乗り出してくる。 アンネローゼは小さく首を振って影のような言葉を飲み込むと、陽だまりのような微笑を向けて答えた。 「そういえば、シャフハウゼン子爵婦人から美味しいヴァン・ローゼを頂いたの。地下室にあるから、取って来てくれないかしら?少し高いところにあるから、そう、ラインハルト、貴方も行ってくれる?帝国元帥閣下に雑用を頼んで悪いのだけれど…。」 話題を逸らされた、と。 が気付くには、まだ少し自分の意識が弱いところにあったのかも知れない。 全幅の信頼を置いているアンネローゼを、は疑うことが出来なかったのである。 だからは、僅かながらに表情が変化したラインハルトとキルヒアイスには気付いても、アンネローゼの様子には小首を傾げるくらいしか出来ない。 「構いませんよ。雑用でも何でも、相努めますとも。」 「あ、待って!ラインハルト!」 一拍置いて、ラインハルトが再びの腕を掴んで、立ち上がった。 半ば引きずられるように立ち上がったが、ラインハルトの体にぶつかる。 それを視界に捕らえたキルヒアイスの表情が少しだけ変わったことに、アンネローゼだけが気付いていた。 |
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