帝都オーディンが、バケツをひっくり返したような豪雨に見舞われた日の夜、は生まれて初めて国立劇場に足を運んだ。ここで行われたピアノ演奏コンクールにヴェストパーレ男爵婦人マグダレーナの愛人の一人が参加していたのである。 どうやらマグダレーナの若い才能を育てるという趣味は、何も男性に限った事ではないらしく、アンネローゼからその存在を聞いたマグダレーナは、是非ともとを誘い、それではと、の幼なじみでアンネローゼの弟でもあるラインハルトとキルヒアイスも招かれたのだった。 コンクールでマグダレーナの愛人が二位入賞をはたし、一行は概ね充実した夜を過ごして帰途に着いたのだが、その日は善くも悪くも充実し過ぎていた。アンネローゼが乗車した地上車が何者かに狙撃され、ラインハルト自身も狙われたのである。 証拠を総て洗い流すかの勢いで降る雨の中で、短くて苛烈な命のやり取りの後に残ったのは、いくつかの死体と敗北を悟って証言を約束した者だった。そしてその後に残されたものは、驚愕と戦慄。 「キルヒアイス、とヴェストパーレ男爵夫人の安否の確認を。」 「はい。」 寧ろこれは、形式の延長線上のものであるはずだった。「今日はうちに泊まってお行きなさいな」と、上機嫌のマグダレーナはを誘っていたから。 気分転換が必要であったのはアンネローゼも同じだが、凶事に巻き込まれたばかりであるにも、アンネローゼが気を回したのである。ラインハルトとキルヒアイスもそれにならって、「喪中だから」と遠回しに断ろうとするに、マグダレーナの好意をすすめたのだ。 にもアンネローゼにも言ってはいないが、二人はアンネローゼがベーネミュンデ侯爵夫人シュザンナの偏見に満ちた憎悪に晒されていることを知っている。いつ魔の手が伸びるか分からないアンネローゼより、寵姫とは別の意味で皇帝の覚えの良いマグダレーナと一緒に居た方が、安全だと思ったのだ。しかし、それは判断ミスだったのか。 実際、まともな思考回路によって導き出された判断であれば、もマグダレーナも無事であるべきだった。だが、相手が権威に塗れた門閥貴族であり、かつては皇帝の寵愛を独占していた事実を、ラインハルトとキルヒアイスは今少し甘く捉えていたようだった。 ベーネミュンデ公爵夫人は、下賎な身の分際でありながら、皇帝の寵愛を自分から奪い、独占しているアンネローゼが気に食わない。だから、アンネローゼをラインハルト共々抹殺しようとしている。すべては、自分の幸せを奪った存在を消し去り、その栄光を取り戻すために。 同様に考えるのならば、とて同じ標的という存在に値するのではないか。 彼女はれっきとした貴族であるが、それは過去に葬り去られた没落の血であり、先日に至っては皇帝の命さえ狙った逆賊の流れを汲むものである。が断った話は既に社交界には既に知れ渡っているが、皇帝が後宮にと望んだほどの若さと美しさを持った少女なのだ。既に歪んだ判断軸が、をも抹殺、もしくはそれに類する標的にとらえたとしても、おかしくはないのかも知れない。 今更な話であるが、今夜襲撃を目の当たりにして、初めてそれに気付いたラインハルトとキルヒアイスは、自分たちの行き着いた結論に思わず戦慄した。 加えて、彼らは前日リヒテンラーデ候が投げ込んだ石によって、ベーネミュンデ侯爵夫人の歪で薄い理性の砦が決壊したことを知らないのだ。 結果的に、その判断は彼らに後悔を強いる事になったのだ。 「ラインハルト様。」 「何だ?」 「ヴェストパーレ男爵夫人が、まだお戻りにならないそうです。」 短い戦闘の名残であるのか、キルヒアイスは厳しい表情でラインハルトに告げる。無言のうちに時計に視線をやれば、針はもうとっくに彼女達が帰宅していていい時間を指していた。 「――少し、様子をみてみよう。雨で予定が狂っているのかもしれない。」 「わかりました。」 ラインハルトが言い、キルヒアイスはそれに同意したが、次に移った行動は、それに矛盾した行動だった。 今夜の襲撃はあまりに直截的過ぎて、ラインハルトの予想の範疇を超えていた。 ならば、2度3度それを超える可能性もあるかもしれない。 「ロイエンタール!」 「何でしょうか?」 「悪いがもう少し付き合ってくれ。それとミッターマイヤー。」 「はい。」 「姉上とシャフハウゼン子爵夫人をお送りしてくれないか。」 「わかりました。」 ラインハルトはロイエンタールに車を寄越すように言って、そして更に手早く指示をだす。ミッターマイヤーは無言で頷くのを確認すると、ラインハルトはもう何も言わなかった。キルヒアイスも次に自分がすべきことを心得ている。その必要は、無いのだ。 「姉上、居館にお戻り下さい。」 「でも、ラインハルト…」 「このままでは風邪を引いてしまいます。事後処理はこちらで行いますから、どうぞゆっくりと休んで下さい。」 ラインハルトは、豪奢な金髪を顔に張り付けながら笑った。彼が普段姉に向ける笑みは、常に作り物ではないものだったが、今回ばかりは仕方が無い。 恐らくアンネローゼ自身もやや失調しているのだろうが、普段から周囲の人間に対して気遣いを怠らないアンネローゼが、とマグダレーナのことを口にしなかったのは、この際は幸いだと言えた。彼女がそれを口にしたら、ラインハルトは忌まわしい可能性について、口にしなければならなかったのだから。 |
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