の冷や汗がヴァルハラの神に届いたわけではないのだろうが、暫く続いた奇妙な見つめ合いもとい睨み合いは、話題の人物の登場によって中断された。 不意にノックと共に声が聞こえ、次いで二人分の軍靴を鳴らす音が続く。 「、入るぞ。」 「ラインハルト様、いくらノックをしても返事を待たずに入るなら意味がありませんよ。」 赤毛の幼なじみの言葉はもっともだったが、金髪の幼なじみは意に介さない。 「俺達の間にいまさら遠慮もなにもないだろう。」 「そうではなくて。他に来客があったらどうするのですか?」 と、キルヒアイスが半分以上冗談で言った言葉に対し、二人は実際に存在した来客者の姿を見つけて凍り付いた。 「これはミューゼル閣下にキルヒアイス大佐。」 ファーレンハイトとしては、何も後ろ暗いところはなかったので、いたって普通に体勢を戻し、自身より階級の高い相手に敬礼を向けたのだが、いかんせんその前の状況が良くなかった。 は発作の名残でソファに脱力した状態で座っており、ファーレンハイトはその目の前でほとんど仁王立ちの状態だったのだ。 「あ、ラインハルトにジークだ。」 はファーレンハイトとの気まずい見つめ合いが中断したことで、あからさまに安堵の表情を浮かべたのだが、それがまた、ラインハルトとキルヒアイスを曲解させる要素にもなったようで。 良くて尋問、悪くて手を付けようとしているようにも見えるその構図に、明らかに二人の半径1メートルの空気が凍り付いた。 「何をして、いらしたのでしょうか?」 キルヒアイスが笑みを浮かべたまま、しかし温度というものが完全に抜け落ちた笑顔でファーレンハイトを見据えた。 幾度となく生命の危機を切り抜けて来たファーレンハイトは背筋に冷たいモノが滑り落ちるのを自覚し、は彼とは別の意味での気まずさに困惑したような笑みを浮かべる。 「確か、ファーレンハイト、だったな。」 「はい。」 「卿はここで、フロイライン・クロプシュトックに何をしていたのだ?」 返答によってはそのままブラスターで打ち抜かれない勢いであった。 アイスブルーの瞳はアイスを通り越したドライアイスの冷ややかさを有しており、彼の隣にいる赤毛の腹心は返答を聞く前に押し潰しかねない殺気を放っている。 二人がをいかに大事にしているか、身に染みて理解したが、無実の罪で殺されてはたまったものではない。 「閣下、小官は」 「構ってくれてたの。」 ファーレンハイトの言葉を遮るようにして、が微笑む。 しかし、誤解を解いてくれるのは有り難いが、「構ってくれていた」という言い回しはいかがなものか。 ファーレンハイトは思ったが、は一度ファーレンハイトを見遣り、少しだけ微笑んだだけで、すぐにラインハルトとキルヒアイスに向き直った。 「ずっと部屋に居て、とても暇だったから、歌っていたの。そうしたら、普段は人がいない部屋から声が聞こえたから、ファーレンハイト少将が不審に思って来たのよ。」 だからそのまま話し相手になってもらっていたの、と、は無邪気に、あるいは無邪気を装ってそう答える。 余程を信用しているのか、それともいかにもがやりそうなことだと納得したのか、ラインハルトはため息とともに睨み付けるのをやめてファーレンハイトを見遣った。 「それは失礼した。足止めをさせて悪かったな、ファーレンハイト。」 身分だけで判断するのであれば、ラインハルトよりもの身分の方が遥かに高いのだが、幼なじみという意識が強いせいか、ラインハルトは保護者のような口調で苦笑する。 しかし、ファーレンハイトがそれに答えるより早く、やや納得していない方の保護者は、相変わらずの笑みでファーレンハイトに問い掛けた。 「ただ話すにしては、距離が近すぎる気がするのは、小官の気のせいでしょうか。」 殺気が冷気になったところで、氷点下が零度になったのと変わらない。 に対して、ラインハルトよりやや強い保護意識を持っているらしいキルヒアイスの、塩でも撒きそうな勢いに、ファーレンハイトは再び顔を引き攣らせて押し黙った。 「ジーク、笑顔が優しくないよ?」 空気を読んでいるのかいないのか、は率直過ぎる言葉でキルヒアイスをたしなめる。 ラインハルトはファーレンハイトの前だというのに、思わず天を仰いだ。 ファーレンハイトの心境としても、まさに「火に油を注いでどうする」といったところだったが、妙なところで抜けている侯爵令嬢はまったく気付いていない様子で、悲しげにキルヒアイスを見上げる。 「僕はそんなつもりは無いけれど。」 「前はもっと優しく笑ってたよ。お兄ちゃんって感じだった。」 「僕にとっては今でもは大事な妹だよ。」 「ほんとに?」 「ほんとに。」 「じゃあ、どうしてそんな怖い顔で笑うの?」 「が心配だからだよ。」 屈みこんで、ソファに座っているに視線を合わせる。 少し考え込むように黙ってから、はキルヒアイスの表情を伺うように応えた。 「倒れたのよ。一人で起き上がれなくて、ファーレンハイト少将が助けてくれたの。」 は簡潔すぎる言葉で、事態を説明した。 ファーレンハイトはそれを聞いて僅かに首をすくめる。 確かにその言葉は事実であり、嘘は微塵も含んでいないが、それにしては内容を割愛しすぎではないだろうか。 そう思ったのだが、それ以上のことを告げる前に、キルヒアイスとラインハルトは勝手に言葉の意味を別の事態として受け取ってしまったようだった。 「倒れたって、ドレスの裾でも踏んだのかい?」 「は昔から良く転んでいたからな。」 「そんなことないもん。」 おそらく、が今の段階では何の問題もなく会話していることで、もともと大事ではなかったのだと判断したのだろうが、ラインハルトとキルヒアイスはすっかり自己完結してしまった。 はそれについては否定も肯定もせず、巧みに話題を逸らしていく。 見方によっては素晴らしい才能だなと思いつつ、ファーレンハイトが一人苦笑していると、キルヒアイスが殺気と冷気を完全に霧散させた笑みでこちらを向いていた。 「そういうことでしたら、ご迷惑をおかけしました、ファーレンハイト提督。重ねてお礼申し上げます。」 深々と頭を下げる。 「いや、たいしたことではない。」 非常に居心地の悪い思いでそれだけ返し、ファーレンハイトはこの場の離脱を図った。 ラインハルトに向き、一礼をする。 「では、小官は任務に戻りますので。」 「あぁ、悪かったな。」 幼馴染の少女の話し相手という仕事に対して、ささやか過ぎる労いの言葉を送ると、ラインハルトとファーレンハイトは互いに苦笑を浮かべた。 ファーレンハイトはゆるりと振り返り、にも一礼をする。 「それでは、フロイライン、小官はこれにて失礼いたします。」 ラインハルトとキルヒアイスがいるということで、完全に最初のような口調に戻し、だけど水色の眼は笑ったままで、ファーレンハイトはに微笑んだ。 それを受けて、も淑女として返答に応じた。 「此方こそ、お忙しい中お付き合いしていただいてありがとうございました。またお時間がありましたらお付き合いくださると嬉しいのですけれど。」 そしてちゃっかり「また遊びに来てくれ」との誘い文句も忘れない。 ラインハルトとキルヒアイスの苦笑を見つつも、ファーレンハイトは年長者として、の求めに応じた。 「では、また機会があれば歌姫の歌を拝聴させていただきましょう。」 礼儀上は完璧に、そして僅かな時間で知己になった少女に対しての年長者という立場から、ファーレンハイトは茶目っ気もたっぷりにその場を後にした。 ぱたりと後ろ手に締めた扉の向こうから、「喜べ、。無罪放免だ!」というラインハルトたちの会話がかすかに聞こえ、ファーレンハイトはくつりと咽喉の奥で笑った。 |
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