「先は分かりませんけれど、私の場合は食うために後宮に入るわけにもいきませんもの。爵位だって今後どうなるかは分かりませんわ。」 「ですが、随分と美しい声をしていられた。もし身分を剥奪されて放り出されても、その声があれば、十分に歌でやっていけるのでは?なんでしたら、未来の歌姫のために小官がスポンサーになりますよ。」 冗談とも本気ともつかない口調に、は素直に「ありがとうございます」とだけ告げた。 ファーレンハイトのほうは、のことを完全に『侯爵令嬢』としてのフィルターを外してみており、一応の敬語は保っているものの、何処まで続くか分からないといった様子で。 ファーレンハイトが褒めてくれたので、はふっと笑って、先ほどの続きをまた少し、ほんの何小節かだけ続けて歌ってみた。 どこか切なげで、途切れそうにも聞こえるのによく伸びる高音は、仰向けになっているからなのか、それとも、彼女の声量が優れているのか。 の声に感心はしたものの、普段から音楽に精通していないファーレンハイトには判断がつかなかった。 変わりに出てきた言葉は、「よく仰向けのままで歌えますね」という、およそ賛辞とも思えない一言で。 しかしそれに対して返された言葉も、「だって退屈なんですもの」という、答えにもなっていないような返事だったが、はファーレンハイトの言葉に「軟禁中の身でよく歌など」という意味を感じたのかもしれない。 「どこの言葉ですか?とても不思議な響きですね。」 だが、それも勝手な思い違いとすぐに改めたのは、耳慣れない言葉に、思わず問いかけられたファーレンハイトの言葉があったからだ。 は悪戯っぽく笑って「秘密です」と笑った。 笑ってから、ラインハルトよりはいくらか薄い水色の眼を見据えて続ける。 「もう何代も前の当主の書斎に、古い音楽メディアが沢山あるのを見つけたんです。多分、宇宙に出る前の時代のものでしょう。もうずっと昔に滅んだ、テラの言葉の1つじゃないかと思います。」 『テラ』という言葉に、ファーレンハイトは不意にを見据えた。 その言葉が指すものは既に過去のことであり、かたくなにテラにしがみつくのは、今はもうそこで生まれた人間か、それを祀り上げている一宗教くらいしかない。 ファーレンハイトは一瞬だけにその危惧を抱いたが、の様子には、果たして「地球教」という存在を知っているかも分からないような口調に、すぐにそれも杞憂であると判断した。 対するも、ファーレンハイトの言葉に対して、「実は私もよく分からないんですよ」と、笑い、自然とファーレンハイトも笑みを誘われる。 「フロイライン・クロプシュトックは、博学でいらっしゃるのだな。」 「で結構です。過大評価なさっては嫌ですわ。私だって、言葉の総ての意味を知っている訳ではありませんもの。」 ころころと、綺麗に織り込まれた絹糸の鞠が転がるようなテンポでは笑い、そして何を思ったか、少し身じろきした。 「よかった。ようやく体に力が戻ってきたみたいです。」 酷く緩慢な動作で上半身を持ち上げながら、はゆるゆると小柄な体を起こそうとする。 ファーレンハイトからすれば、その身体を丸ごと抱き上げても対した膂力は必要としないだろうが、には自分の身体の半分を起こすことさえもが、酷く億劫であるように見えた。 無造作に散らばっていた髪と、それにつられて引きずられた真珠の連なりに、ファーレンハイトは一瞬眼を奪われる。 しかし、やはりぐらついた身体に、いかにも軍人らしいよく引き締まった腕を差し出すと、は模範的な淑女がそうするように、ファーレンハイトの腕に縋った。 「医者を呼びましょう」と、ファーレンハイトが口を開く前に、にこりと微笑んで先制を加える。 「癲癇みたいなものなんだそうです。」 「癲癇?」 耳慣れない言葉に、ファーレンハイトが聞き返せば、はその腕に助けを借りながらも、体勢を整えてソファの背もたれに身体を預け直した。 「えぇ。『癲癇』、みたいなものです。時々、全身の筋肉が硬直したり、弛緩したりして倒れてしまうという病気…なのでしょうか?実は私もよくは分からないんですけど……。」 一体なんなんでしょうね、と、いかにも不思議そうに首を傾げるに、ファーレンハイトは脱力しそうになるのを、ソファに手を付くことで堪えた。 はそんなことには微塵も気付いていないのか、呑気に「数分から数時間で戻りますから、心配なさらないで下さい。」などと言っている。 そんな楽観視出来るような状態ではないのではと、ファーレンハイトは思ったが、思っただけで言語化しなかった。 だからも、実は過去にこれらの症状によって、階段から落ちたり、風呂で溺れたり、弛緩の程度によって全身の血流が滞ったり、呼吸が止まったりなどの大小様々な理由によって両手の数では納まらない程生死を彷徨った経験があることまでは口にしなかった。 もちろん、聞かれたとしても自ら進んでは言わなかっただろうが。 何と言っても、ファーレンハイトからラインハルトやキルヒアイスの耳にでも話が流れてしまえば、心配性な二人のことだ、医療専門チームでも組まれかねない。 よって、筒抜けコースは是が非でも避けたいところだった。 「でも、黙ってたらばれたときに物凄く怒りそうだなぁ…」 とても具体的な想像が浮かび上がり、はややげんなりとした表情で呟いたが、ファーレンハイトが問い掛けるような目線を向けたため、曖昧に笑ってごまかした。 ごまかした方のが言うのもなんだが、世の中には結構微笑っただけでごまかされてくれる人間が多いのだな、と思う。 しかし、ファーレンハイトは表面的にはごまかされているようだが、問うに問えずといった様子のその水色の目は、訝しげにを見つめている。 と、不意に角度を変えて問いかけてきた。 「ミューゼル閣下とキルヒアイスはこのことをご存知なのか?」 ファーレンハイトの口調は、先程とはやや異なり、貴族令嬢に対するそれではなく、どちらかというと兄か父親のような響きがある。 それに無意識に反応してしまったのか、は肩を竦めて小さい体をさらに小さくさせてから、目線を泳がせて答えた。 「………………えっと。嘘は、ついたこと、ない、です。」 「………………つまり、お二人は知らないわけですね。」 言葉とは巧妙なもので、は苦し紛れにいなそうとしたが、ファーレンハイトはごまかされてはくれても、騙されてはくれなかった。 ラインハルトとキルヒアイスがの持病に関してなにがしかを聞かれ、それに対してが「何も無い」と答えれば、それは「嘘」になるが、問われてもいないのに対して、自己申告を行わないことを「嘘」とは言わないだろう。 ファーレンハイトは聞き分けのない娘か妹を見るような気分でしばらくを見ていた。 はその視線になんと答えればいいのか分からず、先程と同じように曖昧に笑ってやり過ごそうとしていたが、形勢は既に逆転しているといえるだろう。 背中に冷や汗が伝いそうな気まずさの中で、はめまぐるしく脱出口を探っていた。 |
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