もちろん、皇帝の発言に凍りついたのはラインハルトだけではない。 自身の利益と一族の繁栄を無制限に求めるため、こうした宮廷での陰謀に塗れたやり取りになれた貴族たちでさえ、寝耳に水といった表情で皇帝を見つめていた。 言葉も無いとはまさにこのことだ。 社交界を追われて長く、また大逆の罪を犯した侯爵家の令嬢を後宮に迎えるなど、冗談ではない。 流石に普段から閥を競っているブラウンシュヴァイクもリヒテンラーデでさえも、このときばかりは口をそろえて抗議しようとしたが、これより早く答えたのは、当事者本人であった。 「陛下、後宮へのお招きは身に余る栄誉ですが、私はそれをお受けすることはできませんわ。」 苦笑を浮かべたに、皇帝は若干表情を崩して眉をひそめる。 ラインハルトの方は相次いで投げ込まれた爆弾発言に、表情にこそ現さないものの、大分肝を冷やしていた。 姉に続いて、今度は妹のような存在であるまでもを皇帝に奪われるのか。 また、こんなにもあからさまに皇帝の命令に背いては、せっかく処罰を免れたも、再び厳罰を処される可能性が出てくる。 案の定、フリードリヒ4世は不機嫌そうに応じた。 「そちは救命した余の命に背くのか?」 「まぁ、滅相もありませんわ。ですが陛下、お分かりになりませんの?そんなことをすれば、陛下のお立場が悪くなりますでしょう?」 ちょこんと小首を傾ける物言いをみると、は心底驚いているといった表情をしていた。 常識を逸した皇帝の発言に驚いているのか、あるいは自身が思っていた皇帝像に比べて、実際の皇帝の愚かさに驚いているのか。 多分ラインハルトは両方だろうと決めつけ、口元に瞬間的な嘲笑を刻んだ。 まだ幼さの抜けきらないどこか不思議な美しさを持つ少女に、やんわりと、しかしそれでいて明確な意思を持って拒否された皇帝は、無言のままに先を促した。 彼にはの答えも、ブラウンシュヴァイクとリヒテンラーデが血相を変えている理由も皆目見当がつかない。 は軽く微笑を浮かべると、困ったように一から説明を始めた。 「陛下は、後宮に召し上げられたいと、陛下の寵を受けたがっている女性が、このオーディンには一体どれほどいると思われますか?いずれも名家の才女でございましょう。そんな方々を差し置いて、大罪の家の娘を迎えるなど、無用な混乱を呼ぶだけです。祖父の罪を私にかからないようにお許しいただけることだけでも、大変な恩情でございますのに、それ以上に個人を特別扱いなさっていけません。」 途中、目を伏せて言葉を紡ぐを、思ったよりも馬鹿ではないと、貴族の面々の一部は認識を改めた。 後宮という言葉をちらつかされて、こうも言い切れる人間はそういないだろう。 だがしかし、皇帝の求めに応じなければ、場合によっては不敬罪にされる。 さてこの娘はどう答えるかと、貴族たちは意地悪く笑った。 はそんな思惑など最初から問題にはならないとでも言うような口調で続ける。 「第一、陛下にはベーネミュンデ公爵夫人やグリューネワルト伯爵夫人を始めとして、数多くの寵姫がおられると聞きます。皆様いずれも厳しく吟味されたお美しい方です。私にその中に入れなどと、おからかいになっては嫌ですわ。」 ここで、今はもう過去の女性とされるベーネミュンデ侯爵夫人シュザンナの名前を出してくるあたりが、がただの侯爵令嬢ではないことを示しているだろう。 の一言は、皇帝のグリューネワルト伯爵夫人アンネローゼに対する尋常ではない執着と、それらが引き起こす後宮の亀裂と、その両者を同時に諌めるものであった。 だが、見ている限りではは微塵もそのような含むものを悟らせず、あくまで皇帝の言葉を冗談として捕らえているようだった。 「そちは余を諌めるか?皇帝に意見をする気か?」 皇帝は不機嫌に呟いたが、は怯まなかった。 ここまで食い下がられて、ようやくその言葉は真意であったのかと驚くが、それでも後宮に入るつもりは、には微塵も無いのだ。 「諌めるつもりはございません。大恩ある身で意見を申すことも同様でございます。ですが、私が後宮に入れば遠からず私は後宮の嫉妬の炎に焼かれて命を落とすでしょうし、そうなれば祖父の罪によって裁かれようと、陛下のご命令に背いて不敬罪とされようと、同じことですわ。ですけど、陛下。まさか本心から私を後宮に招くなどという愚かなことを仰っているわけではありませんでしょう?」 小娘、と侮るには、聞き流せない言葉だった。 皇帝は単に、自分の言葉を否定されることに慣れていなかっただけであろうが、貴族たちはある意味で肝を冷やした。 「それくらいのことが分からないのか。」と、の言葉はそう聞こえたのだ。 どんなに暗愚であろうと、仮にも皇帝という号を拝し、宇宙を統べる存在を相手に、このようなことを面と向かって言うなど正気の沙汰ではない。 本来なら、このような物言いは婉曲に婉曲にと、腹を探りながら行うものであるのに、は実にさりげなく真正面からさっくりと切り付ける。 しかも嘲笑の気配が微塵も無く、不思議そうに首を傾げられては、裏を読んで糾弾するほうが狭量と思われかねない。 「もうよい。追って沙汰を出す故、今日はさがれ。皆もじゃ。」 フリードリヒ4世はいい加減、孫とも娘ともとれる年齢のの言葉にうんざりしたように言った。 ぱたぱたと、まるで犬でも追い払う動作に、は恭しく頭を下げ、他も慌ててそれに倣った。 「。」 よろめきながら立ち上がった皇帝は、思い出したように口を開き、低頭した家臣の列を見遣った。 「何でございましょう?」 「沙汰が出るまでは新無憂宮に留まるがよい。」 が頭を下げたまま答えると、皇帝は実にさりげなく、一度切られた要望を述べた。 まだ諦めていないのか。 ラインハルトは下げた頭の下で苦虫を噛み潰したが、はこの辺りがぎりぎりの妥協線だと思ったのだろう。 「御意」 と、短く答える。 ちなみにその際に、フリードリヒ4世はとても満足そうな表情を浮かべたらしいが、それを知るのは低頭する人々の中で、唯一彼を支えるために立っていた側近のみだった。 「陛下」 満足げに笑んで、再び立ち去ろうとした皇帝に、今度はが声をかけた。 立ち去ろうとする皇帝を呼び止めるなど言語道断の行為であるが、それに気付いたのは、一瞬にして感情が浮上したらしい皇帝以外の者だった。 「何じゃ。」 「おそれながら、お願いがございまして。」 「そちは余の要望はことごとく拒否をするのに、己の要望はしかと申すか。呆れた娘じゃな。」 皇帝はそう言ったが、その口調は怒りよりもからかいを含んだ声であったため、は僅かに苦笑を浮かべた。 「申してみい。」 「恐れ入ります。可能であれば、グリューネワルト伯爵夫人にご面会することをお許し頂きたいのですが。」 「アンネローゼ?」 「はい。昨晩は陛下とご一緒だったとお聞きしましたので。ご迷惑をおかけしました謝罪を申したいのです。」 の言葉に、皇帝は僅かに考えこむそぶりを見せた。 どうせこの娘の部屋を用意するには多少の時間もかかる。 その間にどこぞへと移動されるよりは、所在がはっきりしていたほうが良いだろう。 「良かろう。ミューゼル大将、そちも許してつかわすゆえ、姉に会って行くがよい。案内してやれ。」 「御意」 不意に呼ばれたラインハルトは、先程のと同じ言葉で答えたが、その響きはの比ではないほど不遜なものであった。 幸い、皇帝は言うだけ言ってしまうとそのまま奥へと去って行ったため、その響きに気付くことはなかったが。 完全にその姿が消えるのを待ってから、ラインハルトはようやく頭を上げ、妙なことになったとを見つめた。 |
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