車が止まるわずかな振動で、ラインハルトは眼を覚ました。 どうやら柄にも無くまどろんでいたらしい。 運転席を降りて、キルヒアイスが後部座席のドアを開ける。 「お休みでしたか?」 苦笑したような口調に、ラインハルトも疲れたように笑った。 「これから体力を使うんだ、少しくらい補充しておかないと持たない。」 ブラウンシュヴァイク公オットーの招きに対して、ラインハルトが積極的でなかったのは無理も無い。 彼は招待状が届いたとき、先方も断られることを期待していると言ったものだが、皇帝がそこに招かれるとなると話は別だった。 どんなに意に沿わなくても、断れば不敬罪で捕まりかねない。 車を止めたキルヒアイスに向かい、ラインハルトは短く告げた。 「なるべく早く帰るつもりだ。悪いが待っていてくれ。」 それに対してキルヒアイスも短く笑うと、「ごゆっくりどうぞ」と答えてから、いらぬ一言までを付けてきた。 曰く、「貴族を相手に短気を起こすな」とのこと。 少なからず、自身の気性を自覚しているラインハルトは、不適に笑うだけに留めたが、一度キルヒアイスに背を向け、ブラウンシュヴァイク邸を見やってから、肩越しに振り返ると、短く問いかけた。 「いると思うか?」 「分かりません。年頃で言えば、そろそろ社交界に出てきてもおかしくは無いでしょうが。招待状が送られてきているかもわかりませんから。」 「そうだな。貴族にもピンからキリまである。帝国の権力を二分するブラウンシュヴァイクのようなものから、娘を売り渡すようなミューゼルまでな。」 「ラインハルト様…」 「――行って来る。」 自嘲めいた発言を残して、ラインハルトは紳士淑女の群れに向かって歩き始めた。 キルヒアイスは無言で一礼すると、無駄な動作を微塵も見せずに車の中へと待機に戻った。 さして面白くもなさそうにパーティー会場へと入ったラインハルトも、客のランクを決める失礼極まりないテーブルには最初から見向きもせず、申し訳程度にカクテルの入ったグラスを手にしながら、早々に壁の花を決め込んでいた。 時折自身に向けられる、好意と好奇が絡んだ女性の視線にも、敵意と嫌悪を混ぜ合わせた男性の視線も、白皙の肌には傷すらも付けられない。 それらの視線の意味を、ラインハルトは正確に理解していたが、いちいち反応するのはバカバカしいほどに労力の無駄だった。 手に取ったグラスには、一口も口を付けないまま、ラインハルトはフロアを行きかう客の群れを観察している。 ラインハルトもキルヒアイスも、そもそも社交の場に意味があるなどと思ってはいない。だか、その割りに招待状を蹴ったことが無いのは、ひとえにもう一人の少女のためであった。 アンネローゼと前後して連れ去られたに関して持っている情報は、意外と思うほどに少なかった。 貴族の娘であることは分かっていても、どれほどの貴族なのかは分からない。 流石に、のフルネームさえ知らないと分かったときの落胆は激しかった。 キルヒアイス夫妻に届いた手紙などには一応差出人の名前も書いてあったが、ラインハルトやキルヒアイスの記憶が正しければ、それが古い謳の女神をあらわす名であり、偽名であることは明白だったからだ。 結局、何時間コンピューターとにらみ合いをしてもそれらしい手がかりなど出ては来なかった。 結局は自分たちの記憶回路をフル回転し、の身元を導き出すしかなかったのだが、そこから推測するの身元は、跡取りが問題化する程度には大きな貴族であり、まだ幼児であったが連れ戻されたからには、壮年の人間がいない家だと絞られてくる。 だが、情報としては少なすぎた。 最終的に、人海戦術を頼るしかなく、ラインハルトとキルヒアイスは機会があれば社交の場に顔を出し、の行方を捜すべく壁の花となってパーティーを観察することが恒例となっていた。 「早くでて来い、」 意識しているのかしていないのか、ラインハルトはカクテルを一口であおり、溜息と共に呟いた。 先ほど、車の中でまどろんでいたせいか、この九年で髪の一筋すらも姿を現さないに対し、焦りがこみ上げてくる。 九年といえば、ラインハルトがと接していた時間よりも長い。 当時十歳だったラインハルトとキルヒアイスは十九歳になり、アンネローゼは十五歳から二十四歳になった。 当たり前だか、も五歳から十四歳になり、随分と面変わりもしているはずだが、ラインハルトもキルヒアイスも、それでもを見間違えるはずなどないと信じて疑わなかった。 年月の経過と共に、記憶の中の姿は幾分か美化されていたとしても、あの美しい銀色の髪も、ピジョン・ブラッドの眼も、どこか寂しげに浮かべる笑みも、見間違える要素など何処にも無いのだ。 根拠などなくても、彼女は変わっていないと確信している。 それがただの願望であったとしても、今はそれだけが総てだった。 アンネローゼとと、どちらをより強く取り戻したがっているかと問われれば、即答は出来ないだろう。 だが、アンネローゼとと、どちらの方がより取り戻しやすいかと問われれば、身元不明であることを差し引いても、明らかだった。 自分たちは、アンネローゼの代わりにを助け出そうとしているのかもしれない。 そう考えかけてから、ラインハルトはふっと自嘲めいた笑みを口元に刻んで、やめた。 ばかばかしい。 来客の観察もあらかた終了したところで、ラインハルトは壁から背を離した。 もとより長居をするつもりも無い。 皇帝が腹痛のために欠席をするというのなら、ここから早く消えたところで不敬罪には値しないだろう。 姉の姿を見られなかったのは残念だが、姉が憎むべき皇帝の横にいるのを見ずに済んだのは、ある意味では良かったのかもしれない。 フレーゲルのようにこれ以上絡んでくる者が現れないうちに退散しようと決めたとき、会場のエントランスのあたりでにわかに騒ぎが起きた。 「止まりなさい!ここが何処だか分かっているのか?」 「奥に入れるな!捕らえろ!」 護衛兵の声だろうか。 ばたばたと人数が集まってくる足音に混ざって、小刻みに大理石の床を叩く足音が響いた。 「ごめんなさい!でもっ!」 ざわめきの中から、鈴を鳴らすような少女の声が聞こえる。 ラインハルトは殆ど反射的に振り返っていた。 呼吸を乱して駆け込んできた少女は、フレンチトップの淡いクリーム色のワンピースを身に付けている。 まるで猫のようにするりと警備兵の手を交わして、誰かを探し求めるように必至に視線を彷徨わせている。 「捕まえたぞ!」 「きゃっ!」 警備兵の一人が少女の長く垂らしていた髪を掴み、少女は短く悲鳴を上げた。 仰け反り、動きが止まった少女を、警備兵が羽交い絞めにし、その行動を完全に封じる。 その光景に、ラインハルトは一瞬で頭に血が上るのを自覚した。 脳裏に焼きついている幼い姿と、小柄な少女の姿が重なる。 年齢よりも若干幼い面立ちを残した少女は、しかしラインハルトの記憶に眠る「」の美しさを、寸分も違えることなく成長しているように見えた。 やめろ、その汚い手で彼女に触れるな。泣いているだろうが。 蒼氷色の瞳に超新星のような危険な光彩をやどして、ラインハルトが一歩踏み出した時、視線の先で捕らわれていた少女は、何かを見つけて張り裂けんばかりに声を上げていた。 「だめです!!それを動かしてはだめっ!!!」 まるで自分が拘束されているかも分かっていないような、声。 その輝く銀色の髪が振り乱され、紅玉の瞳から涙が散った瞬間、それよりももっと鮮やかな閃光が起こり、ついで周囲一体が熱で満たされた。 「っ!!」 九年ぶりに呼んだ名前は、少女に届く前に轟音に飲み込まれた。 |
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